獣紋の聖女
 その日の夕刻まで、ナヴァール・ルヴァンは生きた心地がしなかった。
 夜明け前、妹が毒にやられて瀕死になり、すぐさま施療院へと駆け込んだ。寝ている薬師をたたき起こし、なんとしても治癒を頼もうとした矢先、わけのわからない一団に拘束され妹のもとへと戻された。
 その後、素性のしれない男どもに囲まれ、椅子に縛られ、床に転がされる。何かの陰謀なのかと死を覚悟して抜け出そうとしたところ、今度は強引に眠らされ、夕刻まで寝てしまうという失態をおかした。
「早くしないと妹が死ぬ」
 起きた瞬間、またもや椅子を引きずって出ようとすると、ここの家主が入ってくる。
 たしか女商人のジュレといった。そういえばタガメの旦那はどうなった、アンタは無事なのか、妹はどこに――ひととおり質問するが女商人は答えず、ひとこと「来客があった」と微妙な顔をするだけだった。

 拘束を解かれ、とある部屋に通される。
 その部屋の中央、一人がけのソファに座る客の顔を見たところ、ナヴァールの顔は氷河のそれよりも固く凍り付いた。
 
「ぜ……ゼンメル・ローヴェルグ……さま?」

 顔を二度見、三度見する。
 ローヴェルグ宰相の子息ともなれば、騎士団での地位も高い。たしか王直属の近衛だったはずだ。
 遠目からしか見たことのない存在だったはずの方が、なぜこんな平民の家に――いや、自分の前にいるのか理解ができない。
 しかしすぐに、妹の所業が罪に問われたのだと思いに至る。ネイジアのサロンでの評判が良すぎたため、どこかから漏れてしまったのだろうと推測した。
 挨拶とともにその場に跪く。
 こんな案件でわざわざこの人が来るのかという疑問を押し込めながら、喉の奥から声を絞り出した。

「――申し訳ございません! 我が妹の成人覚醒の報告を遅らせてしまったことは、深くお詫び申し上げます。しかし妹にも事情があり、ネイジアにおける治療についても決して悪意があったわけではなく――いえ、むしろ、獣人たちは聖女としての妹に感謝しておりました!」
「あー。めんどくせえな。いったん黙れ」
「は、はい――!?」

 なんだこの反応は。ナヴァールは平伏しながらも疑問符を飛ばす。
 するとそれを察したのか、ソファに座ったゼンメルが、息をつきながら足を組みなおした。
「第十三騎士団の長、ナヴァール・ルヴァンだな。挨拶はいい、俺の質問に答えろよ」
「は」
 なんだか、貴族同士の会話というより、訓練中の騎士の会話の雰囲気に近い。
 あまり回りくどい言い方は好まないのかと判断し、ナヴァールは応え方を変えた。
「今、あっちの部屋で寝ている令嬢は、姉のほうか妹のほうか。名も言え。偽名を使ってるのならその理由もだ。正直に答えないと……わかってるな?」

 意味のない笑顔に、底知れぬ恐怖を感じる。騎士の噂では、この人の怒りを買うと大体表舞台からは消えるという。実際多くの者が失脚してきたし、ネイジア送りになる過去もあった。
 ナヴァールはなるべく目を合わせないよう、顔を伏せたままで答えた。

「は。そこにいるのはルヴァン家の長女、コルオーネ・ルヴァンです。わけあってアルイーネの名を語っていたことについては、また違う事情がありまして。できれば外部にはこのまま伏せていただきたく存じます」
「だから、事情ってなんだよ」
「……そ、それは、我が家門の進退に関わることでして」
「お前の妹に薬を持って来てやったの、忘れてる? 間接的とはいえ、俺は命の恩人なんだがなぁ。話せないのか?」
「で、ですからそこは――」

 そのとき女商人ジュレの声が、部屋の外で響いた。「コルルさん、まだ起き上がっては」との声と同時にナヴァールの背後にある扉が開く。
 出てきたのはコルルだ。コルルは部屋の中を見るなり、兄の傍に寄り同じように両膝をつく。ハニーブロンドの髪が、床へ流れるように落ち、細い肩が髪のすき間から露わになった。

「申し訳ございません――私のせいなのです、兄は悪くありません」

 病み上がりの青白い顔。瞳は潤み、声は震えている様子だ。
「あらためて、謝罪を申し上げます。成人覚醒について黙っていたのはすべて私の一存であり、ネイジアの獣サロンにおける治療に関しても、兄や騎士の方々は何も悪くはありませ……」
 顔をあげた瞬間、コルルはゼンメルと目が合う。
 見覚えのある青年に、一瞬コルルは台詞を忘れ、ゼンメルにいたっては目を細めた。

「あなたは……いえ、失礼いたしました」
 コルルは湖畔での一件やアカデミー寮でのことを思い出し、目が合った瞬間すぐに頭を下げる。
 一方ゼンメルは、まるで獲物を見つけた鷹のように目を輝かせ、口角をあげた。

『兄を助けるか……。レイフェよかったな、いい子だぞ、お前の聖女は』――などと密かに思ったことは誰にも分からない。
 ゼンメルは椅子から離れ、コルルの手を取って立ちあがらせる。その後、自ら場に跪き、まるで宝物を扱うかのようにコルルの手に額を寄せた。

「コルオーネ嬢、いや、失礼いたしました。このゼンメルは、レディを泣かせるなど、もちろん本意ではございません。もしよろしければ、コルオーネ嬢の抱えている事情とやらをお聞かせ願えませんか。こたびのお詫びに、私にできることがあれば力になりましょう」

 ――丁寧な口上、完璧な笑顔であった。コロッと態度を変えたゼンメルに、兄ナヴァールは開いた口が塞がらない。
 コルルはというと、はじめて受けたともいっていい、貴族男性の柔らかな物腰に戸惑うばかりだ。
 やっとのことで「お気持ちは嬉しいですが、あなたさまに頼みごとなど畏れ多くて……」と返答する。しかし、続きを言う前に、「ゼンメルとお呼びください、レディ」と遮られてしまう。

 アカデミーの寮で一度会っているので名は知っていた。
 しかし、見えない圧に押し切られ、コルルは頷くだけにとどめたのだった。
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