獣紋の聖女
19 夜会前
獣紋夜会前日。
王宮内の執務室では、獣化に伴い、遅延していた仕事をすさまじい速さでこなしているレイフェがいた。
バリバリと快活に、あるいは躍動すら伴いながら業務を片付けていくレイフェに対し、補佐官のゼンメルは静かに、淡々と筆を走らせる。
動と静の空気が微妙に入り混じった最中、部屋に入ってきたラピスが驚きの声を上げた。
「兄上……もう獣化が解けてる? え、まだ、獣周期だったよね?」
たしか、大事な聖女を救うために獣化したのは五日前だった気がする。
レイフェの場合は特殊な獣周期なため、大体の獣人が三ヶ月に一度なところ、半年に一度という機会で獣になる。
なったらなったで、しばらくは獣の姿のまま痛みに耐える期間が続くはずであった。
「しかも、ありえないほど元気だし……抽出の儀もやったんだよね?」
神獣化するたびに血を抜くレイフェは、その後しばらく体調不良な日々が続く。起き上がるのもやっとなため、こんなふうに政務をやれるほどの体力はないはずだった。
「ああ、ラピス。よかったよ、獣の姿では獣紋夜会に行けないからね」
花が飛びそうな朗らかな顔で言い返される。
それでも手の動きを止めないところがすごい。変な特技に目を見張りながら、ラピスはとある予測を立てた。
「まさか、獣の姿でコルオーネ嬢に会いに行ったんじゃあ……」
レイフェの手が止まった。
「大丈夫だよ。彼女、『猫』は好きみたいだ。僕のもう一つの姿はわからないけど」
その台詞を聞いてラピスはほっとする。
いま、神獣姿なんかで会いに行けば、彼女は恐怖で震え上がってしまうかもしれない。
そうしたら今回の計画も水の泡だ。
「とうとう明日かぁ。……ねぇ、こんなに楽しみな夜会は初めてだよ。あの子に会えると思うと夜も眠れなくてさ。面影が瞼の裏に出てくるし、自分の姿もあちこち気になってくるし……て、ゼンメル、きいてる?」
そこで、ゼンメルの背中に語りかける。
意図して変えないままなのか、ゼンメルの作業机は、未だにレイフェから見て背を向けた形に置いてある。そして距離が開いている。
「ゼンメルは聞いてないと思うよ。耳栓してるもん。兄上、それより僕、報告があってきたんだけど。大丈夫?」
レイフェの机横に置いてある椅子には、ラピスが座る。
わりと重要な案件を持って来てるのに、当人がこれではイマイチ不安だ。
「その報告は、ネイジアの湖の成分の件と例のポーションの件かな。大丈夫、すぐに近衛隊も出せるようにしてあるし」
先に言われ、ラピスはぎょっとする。
「何で知ってるの兄上、僕、報告を受けてすぐ来たのに」
レイフェは頬杖をつきながら、にこりと笑った。
「ネイジアのサロンへ行ったときに、民がウワサしてたよ。ネイジア湖は彼らの生活水でもあるからね。赤月の風にさらされたその水が、独自のルートでポーションに使われているところまでは把握済みだ」
「じゃあ……湖の水底にある石碑の件は? マッピオの仲間の、水生動物たちの協力なしでは見つけられなかったからさ。こっちは自信あるんだけど」
「それはさすがに知らないなぁ。すごいねラピス……石碑にはなんて?」
「今、学者と一緒に解読してるんだ。わかったら知らせるから、楽しみにしてて」
ラピスは心の底からにっこりと笑う。こういうことで兄の役に立てるのは嬉しい。もともと古代研究に興味があり、幼いころから学者にまじって勉強していたため、国政よりも楽しいことだった。
「そんなことよりさ、ラピス。王宮のガーデンにいる動物たち、夜会時はどうしたらいいかな。今までは僕がいたから良かったけれど、今回はさ、僕も忙しくなりそうだし」
「いやいやいや、兄上。心配するとこ、そこじゃないよね?」
するとようやく、ゼンメルが振り返った。
「――あまり絡まないほうがいいですよ、殿下。こいつ、例の聖女に獣姿で会ってきたことで、浮かれてるんだ。さっきからの雑談はみんなこれだし、俺は耳栓を愛するようになってしまった。まともに聞いたら聞いたで、まったく段取りとかわかってねぇし、先行き不安しかねーよ……」
敬語も忘れ、思ったことを率直に言ってしまうゼンメルである。
「あー。兄上、獣紋夜会に出るの初めてだもんね……今まで、関係ないことだからって、夜会の日はいつもパティオで一人、動物と遊んでいたしね。さみしかったんだろうなぁ。僕、配慮が足りなかったかも……」
「殿下は十分に優しいですよ。だが、こいつがこんなスローペースだと結婚まであと何年かかるかわからんな。せっかく死を免れても由々しき事態だぞこれは――」
「うーん……コルオーネもおっとりタイプだしね……どうしようか」
二人でレイフェの顔を見る。
「ん、なんだい?」と聞きかえすレイフェは、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいのいい笑顔だ。
「……ま、俺が何とかするしかねーか。ラピス殿下、恋愛は刺激が必要って言うしな。それなりの障害をつくってやれば少しは進むだろ」
「うん、やっちゃって。このままだと国政に影響出ちゃうから。いますぐ!」
ラピスは身を乗り出し、ゼンメルと作戦を練り始める。
和やかな朝の王宮だった。
王宮内の執務室では、獣化に伴い、遅延していた仕事をすさまじい速さでこなしているレイフェがいた。
バリバリと快活に、あるいは躍動すら伴いながら業務を片付けていくレイフェに対し、補佐官のゼンメルは静かに、淡々と筆を走らせる。
動と静の空気が微妙に入り混じった最中、部屋に入ってきたラピスが驚きの声を上げた。
「兄上……もう獣化が解けてる? え、まだ、獣周期だったよね?」
たしか、大事な聖女を救うために獣化したのは五日前だった気がする。
レイフェの場合は特殊な獣周期なため、大体の獣人が三ヶ月に一度なところ、半年に一度という機会で獣になる。
なったらなったで、しばらくは獣の姿のまま痛みに耐える期間が続くはずであった。
「しかも、ありえないほど元気だし……抽出の儀もやったんだよね?」
神獣化するたびに血を抜くレイフェは、その後しばらく体調不良な日々が続く。起き上がるのもやっとなため、こんなふうに政務をやれるほどの体力はないはずだった。
「ああ、ラピス。よかったよ、獣の姿では獣紋夜会に行けないからね」
花が飛びそうな朗らかな顔で言い返される。
それでも手の動きを止めないところがすごい。変な特技に目を見張りながら、ラピスはとある予測を立てた。
「まさか、獣の姿でコルオーネ嬢に会いに行ったんじゃあ……」
レイフェの手が止まった。
「大丈夫だよ。彼女、『猫』は好きみたいだ。僕のもう一つの姿はわからないけど」
その台詞を聞いてラピスはほっとする。
いま、神獣姿なんかで会いに行けば、彼女は恐怖で震え上がってしまうかもしれない。
そうしたら今回の計画も水の泡だ。
「とうとう明日かぁ。……ねぇ、こんなに楽しみな夜会は初めてだよ。あの子に会えると思うと夜も眠れなくてさ。面影が瞼の裏に出てくるし、自分の姿もあちこち気になってくるし……て、ゼンメル、きいてる?」
そこで、ゼンメルの背中に語りかける。
意図して変えないままなのか、ゼンメルの作業机は、未だにレイフェから見て背を向けた形に置いてある。そして距離が開いている。
「ゼンメルは聞いてないと思うよ。耳栓してるもん。兄上、それより僕、報告があってきたんだけど。大丈夫?」
レイフェの机横に置いてある椅子には、ラピスが座る。
わりと重要な案件を持って来てるのに、当人がこれではイマイチ不安だ。
「その報告は、ネイジアの湖の成分の件と例のポーションの件かな。大丈夫、すぐに近衛隊も出せるようにしてあるし」
先に言われ、ラピスはぎょっとする。
「何で知ってるの兄上、僕、報告を受けてすぐ来たのに」
レイフェは頬杖をつきながら、にこりと笑った。
「ネイジアのサロンへ行ったときに、民がウワサしてたよ。ネイジア湖は彼らの生活水でもあるからね。赤月の風にさらされたその水が、独自のルートでポーションに使われているところまでは把握済みだ」
「じゃあ……湖の水底にある石碑の件は? マッピオの仲間の、水生動物たちの協力なしでは見つけられなかったからさ。こっちは自信あるんだけど」
「それはさすがに知らないなぁ。すごいねラピス……石碑にはなんて?」
「今、学者と一緒に解読してるんだ。わかったら知らせるから、楽しみにしてて」
ラピスは心の底からにっこりと笑う。こういうことで兄の役に立てるのは嬉しい。もともと古代研究に興味があり、幼いころから学者にまじって勉強していたため、国政よりも楽しいことだった。
「そんなことよりさ、ラピス。王宮のガーデンにいる動物たち、夜会時はどうしたらいいかな。今までは僕がいたから良かったけれど、今回はさ、僕も忙しくなりそうだし」
「いやいやいや、兄上。心配するとこ、そこじゃないよね?」
するとようやく、ゼンメルが振り返った。
「――あまり絡まないほうがいいですよ、殿下。こいつ、例の聖女に獣姿で会ってきたことで、浮かれてるんだ。さっきからの雑談はみんなこれだし、俺は耳栓を愛するようになってしまった。まともに聞いたら聞いたで、まったく段取りとかわかってねぇし、先行き不安しかねーよ……」
敬語も忘れ、思ったことを率直に言ってしまうゼンメルである。
「あー。兄上、獣紋夜会に出るの初めてだもんね……今まで、関係ないことだからって、夜会の日はいつもパティオで一人、動物と遊んでいたしね。さみしかったんだろうなぁ。僕、配慮が足りなかったかも……」
「殿下は十分に優しいですよ。だが、こいつがこんなスローペースだと結婚まであと何年かかるかわからんな。せっかく死を免れても由々しき事態だぞこれは――」
「うーん……コルオーネもおっとりタイプだしね……どうしようか」
二人でレイフェの顔を見る。
「ん、なんだい?」と聞きかえすレイフェは、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいのいい笑顔だ。
「……ま、俺が何とかするしかねーか。ラピス殿下、恋愛は刺激が必要って言うしな。それなりの障害をつくってやれば少しは進むだろ」
「うん、やっちゃって。このままだと国政に影響出ちゃうから。いますぐ!」
ラピスは身を乗り出し、ゼンメルと作戦を練り始める。
和やかな朝の王宮だった。