獣紋の聖女
20ー1 獣紋夜会
私も目を凝らしてそちらの方向を見る。すると、見覚えのあるドレスが視界に飛び込んだ。
(え……私のドレス? 実家でアルルに持っていかれた……)
間違いない。生地は上等でも少し流行おくれのドレスだ。
ということは、着ている主は当然――。
「アルル……」
やっぱりアルルがいた。獣紋夜会なのに、アイマスクをつけていないようだった。
けれど、驚いたのはそこじゃない。
アルルはひとり、令嬢たちの集団に囲まれていた。そこで周囲を睨みながら悔しそうに唇を噛んでいる。
何が起きたんだろう。
以前、アカデミー寮でみたアルルの部屋のことが浮かんだ。
アルルはアカデミーの学生だ。学生なら専用の馬車があるから、王都に来るのにさほど時間はかからなかっただろう。
寮へ帰ってきて、ショックを受けたはずだ。
持ち物を傷つけられ、悪口も書かれた酷いありさまの自分の部屋を見て――。
近づくと、アルルは先ほどから動いていない様子だった。よくよく見ると、アルルのドレスにはジュースの汚れがあちこちについていて、床にはレモンやらオレンジやら、果物が散乱している。
それだけでも異常なのに、囲んでいる令嬢たちは口元を優雅に隠しながらアルルを笑っていた。
「まったく……あなたごときが獣紋夜会に出てくるなんて、身の程知らずねぇ。ドレスも古ければ、髪飾りもセンス無しで、宝石も安物。満足に身づくろいもできないのかしら」
「ほんと。たいした家柄でも獣紋でもないくせに、ふだんからグレミオさまに色目を使ってたっていうじゃない。いくら相手が優しいからって厚かましいにもほどがあるわ」
「ねぇ、あなたが夜会にくると皆が迷惑なのよ? 悪いことはいわないから、寮に帰っておとなしくなさったら? あの部屋でくつろげるかどうかわからないけど」
――なんて言い方だろう。アルルの身分が低いのは本当のことだけど、こんな言葉をあえて投げるなんて、悪意以外のなにものでもない。
(アルル……泣いてる?)
うつむいて黙り込む妹の姿に、胸がぎゅっとしめつけられる。いつもの自信満々なアルルとは全然ちがって、小さくか弱い印象だ。
アルルが実家で私にしてきたことを忘れたわけじゃない。
けれど、こんないじめを受けていたら、他人のドレスを欲しがるのは当然の流れだろう。いじめられてることを家族に言えなかったのは、おそらくアルルの自尊心だ。
私は軽食が置いてあるテーブルへ向かい、ピッチャーを手に取る。それから令嬢たちの間に入って、横一線に水をぶちまけた。
「きゃあ、な、なにをなさるの!?」
驚く令嬢たちに、すまして答える。
「飲みものを人にかける遊びが流行ってるのでしょう?」
「な、あなた誰よ? 仮にも王室主催の夜会でこの狼藉――許されることではないわ!」
「……なら、皆さんがひとりの令嬢を囲んで悪口を言うのは、分別があることなの?」
なるべくゆっくり、きちんと相手に伝わるように言い返す。すると、令嬢たちがみるみるうちに顔を真っ赤に変えていく。
どうやら高位貴族の令嬢みたいだけれど、年のころはアルルと同じくらいだ。まだ子どもならなおさら、こんなことをしちゃいけない。
「こ、この子は痴女なのよ! 獣紋の合わない人につきまとっている常識知らずなのよ? アカデミーでもみんな、笑ってるわ!」
「獣紋が合ってないと、恋してはいけないの?」
「はぁ、当たり前じゃない! 国家に貢献しない恋愛なんて、貴族令嬢がすることじゃないでしょうよ!」
シン、と静まり返る。
ホール中の人たちが、ここに注目しているようだった。
わかってる。目立ってはいけないことくらい。でも妹は、おそらく今までずっといじめられてきたのだ。それを知ってしまった以上、傍観なんかできるわけがない。
虚勢を張ってなんとか耐えてきたアルルの心だって、いつつぶされてしまうかわからない――。
「……だからといって、傷つけていいわけはないわ。謝罪がないのなら私たちはもう行きます」
「待ちなさいよ! せめて名乗りなさいよ、お父さまに言いつけてやるんだから!」
そこで私も同じようにジュースをかけられた。甘そうな香りをまとった液体が、髪から額をつたって下へと落ちる。
そのときだった。
それまでじっとしていたアルルが突然、私の手を取って走り出す。
「バカっ! あんたの正体までバラしてどうすんのよ!」
声質で私だとわかったのだろうか。痛いほど手首を強くつかまれ、一目散に逃げだす。
ホールの壁際中央にある大きな窓は、ガーデンへの出入り口になっているらしい。開いているところを見ると、そこも休憩場所なのだろう。そそくさと入ると、夜のさわやかな冷気が肌に触れた。
「待って、アルル。追いかけてきてないみたい」
一定の距離を全力で走ったところで。
夜のガーデンに飛び出した私は、どくどくと鳴る胸を手で押さえた。そこで、ふわっと肩に何者かが落ちてくる。覚えのある感じに振り向くと、やはりキューちゃんが留まっていた。
「あら、キューちゃん。外で待機していてくれたのね?」
くちばしに触れ、羽根を撫でる。すると横からアルルの厳しい叱咤が飛んだ。
「なんで獣紋夜会なんかに来てんのよ!? さらにあんな余計なことをして――!」
ちょっと困ってしまう。余計なことだったとは思えないから。
「アルルちゃん。いじめられてたこと、気づいてあげられなくて、ごめんね」
瞬間、アルルは「ぐあっ」と奇声を出して、私に近づく。ますます目を吊り上げ、声を荒げた。
「あああ、もう、余計なお世話だっていってんのよ、お姉さまのバカ! あんなことで私が傷ついてるように見えたわけ!?」
「ええ、見えてるわ。まるで威嚇で両手をひろげたミナミコアリクイみたいよ」
「ミナ……!? ま、まぁいいわ。今、時間がないの。いろいろお姉さまには言いたいことがあるけど、話はまた今度にするわ」
プイと、横を向いた。
時間がないってどういうことなんだろう。こんな汚れたドレスで、またホールに戻るつもりなのだろうか。
「アルル……今日は、もう帰ったほうがいいんじゃないかしら。そうだ、私の泊まる宿に来る? そこでなら」
「あーもー邪魔しないで! 私これから仕事があんのよ。今度声かけたら絶交するからねっ!」
口をつぐんだ。こうまで頑なに拒否されては、こちらも何も言えない。黙っていると、アルルはハンカチを取り出し、すれ違いざまに私に押し付ける。とっさに振り向くと、アルルの後ろ姿からぼそぼそと呟きが聞こえた。
「……回帰してるからって、何もかも分かった気になってんじゃないわよ? 私も、いろいろ思い出してるんだからねっ。実家でしこたま頭を打ったときにね!」
「え、……は……?」
いま、回帰って言った?
耳を疑いつつ、振り返る。聞きまちがいじゃない――いろいろ思い出したって。
「待って、アルル」
呼びかけたときにはアルルの背中は小さくなっていた。ホールへ戻っていったのだろう。
そこでキューちゃんがカァと鳴き声を漏らす。
そういえば、キューちゃんが、今日はだいぶおとなしいことに気がついた。家ではいつも、アルルの姿を見ると攻撃していたのに。
「キューちゃん?」
呼びかけると、キューちゃんは応えるように、再びカァと鳴いたのだった。
(え……私のドレス? 実家でアルルに持っていかれた……)
間違いない。生地は上等でも少し流行おくれのドレスだ。
ということは、着ている主は当然――。
「アルル……」
やっぱりアルルがいた。獣紋夜会なのに、アイマスクをつけていないようだった。
けれど、驚いたのはそこじゃない。
アルルはひとり、令嬢たちの集団に囲まれていた。そこで周囲を睨みながら悔しそうに唇を噛んでいる。
何が起きたんだろう。
以前、アカデミー寮でみたアルルの部屋のことが浮かんだ。
アルルはアカデミーの学生だ。学生なら専用の馬車があるから、王都に来るのにさほど時間はかからなかっただろう。
寮へ帰ってきて、ショックを受けたはずだ。
持ち物を傷つけられ、悪口も書かれた酷いありさまの自分の部屋を見て――。
近づくと、アルルは先ほどから動いていない様子だった。よくよく見ると、アルルのドレスにはジュースの汚れがあちこちについていて、床にはレモンやらオレンジやら、果物が散乱している。
それだけでも異常なのに、囲んでいる令嬢たちは口元を優雅に隠しながらアルルを笑っていた。
「まったく……あなたごときが獣紋夜会に出てくるなんて、身の程知らずねぇ。ドレスも古ければ、髪飾りもセンス無しで、宝石も安物。満足に身づくろいもできないのかしら」
「ほんと。たいした家柄でも獣紋でもないくせに、ふだんからグレミオさまに色目を使ってたっていうじゃない。いくら相手が優しいからって厚かましいにもほどがあるわ」
「ねぇ、あなたが夜会にくると皆が迷惑なのよ? 悪いことはいわないから、寮に帰っておとなしくなさったら? あの部屋でくつろげるかどうかわからないけど」
――なんて言い方だろう。アルルの身分が低いのは本当のことだけど、こんな言葉をあえて投げるなんて、悪意以外のなにものでもない。
(アルル……泣いてる?)
うつむいて黙り込む妹の姿に、胸がぎゅっとしめつけられる。いつもの自信満々なアルルとは全然ちがって、小さくか弱い印象だ。
アルルが実家で私にしてきたことを忘れたわけじゃない。
けれど、こんないじめを受けていたら、他人のドレスを欲しがるのは当然の流れだろう。いじめられてることを家族に言えなかったのは、おそらくアルルの自尊心だ。
私は軽食が置いてあるテーブルへ向かい、ピッチャーを手に取る。それから令嬢たちの間に入って、横一線に水をぶちまけた。
「きゃあ、な、なにをなさるの!?」
驚く令嬢たちに、すまして答える。
「飲みものを人にかける遊びが流行ってるのでしょう?」
「な、あなた誰よ? 仮にも王室主催の夜会でこの狼藉――許されることではないわ!」
「……なら、皆さんがひとりの令嬢を囲んで悪口を言うのは、分別があることなの?」
なるべくゆっくり、きちんと相手に伝わるように言い返す。すると、令嬢たちがみるみるうちに顔を真っ赤に変えていく。
どうやら高位貴族の令嬢みたいだけれど、年のころはアルルと同じくらいだ。まだ子どもならなおさら、こんなことをしちゃいけない。
「こ、この子は痴女なのよ! 獣紋の合わない人につきまとっている常識知らずなのよ? アカデミーでもみんな、笑ってるわ!」
「獣紋が合ってないと、恋してはいけないの?」
「はぁ、当たり前じゃない! 国家に貢献しない恋愛なんて、貴族令嬢がすることじゃないでしょうよ!」
シン、と静まり返る。
ホール中の人たちが、ここに注目しているようだった。
わかってる。目立ってはいけないことくらい。でも妹は、おそらく今までずっといじめられてきたのだ。それを知ってしまった以上、傍観なんかできるわけがない。
虚勢を張ってなんとか耐えてきたアルルの心だって、いつつぶされてしまうかわからない――。
「……だからといって、傷つけていいわけはないわ。謝罪がないのなら私たちはもう行きます」
「待ちなさいよ! せめて名乗りなさいよ、お父さまに言いつけてやるんだから!」
そこで私も同じようにジュースをかけられた。甘そうな香りをまとった液体が、髪から額をつたって下へと落ちる。
そのときだった。
それまでじっとしていたアルルが突然、私の手を取って走り出す。
「バカっ! あんたの正体までバラしてどうすんのよ!」
声質で私だとわかったのだろうか。痛いほど手首を強くつかまれ、一目散に逃げだす。
ホールの壁際中央にある大きな窓は、ガーデンへの出入り口になっているらしい。開いているところを見ると、そこも休憩場所なのだろう。そそくさと入ると、夜のさわやかな冷気が肌に触れた。
「待って、アルル。追いかけてきてないみたい」
一定の距離を全力で走ったところで。
夜のガーデンに飛び出した私は、どくどくと鳴る胸を手で押さえた。そこで、ふわっと肩に何者かが落ちてくる。覚えのある感じに振り向くと、やはりキューちゃんが留まっていた。
「あら、キューちゃん。外で待機していてくれたのね?」
くちばしに触れ、羽根を撫でる。すると横からアルルの厳しい叱咤が飛んだ。
「なんで獣紋夜会なんかに来てんのよ!? さらにあんな余計なことをして――!」
ちょっと困ってしまう。余計なことだったとは思えないから。
「アルルちゃん。いじめられてたこと、気づいてあげられなくて、ごめんね」
瞬間、アルルは「ぐあっ」と奇声を出して、私に近づく。ますます目を吊り上げ、声を荒げた。
「あああ、もう、余計なお世話だっていってんのよ、お姉さまのバカ! あんなことで私が傷ついてるように見えたわけ!?」
「ええ、見えてるわ。まるで威嚇で両手をひろげたミナミコアリクイみたいよ」
「ミナ……!? ま、まぁいいわ。今、時間がないの。いろいろお姉さまには言いたいことがあるけど、話はまた今度にするわ」
プイと、横を向いた。
時間がないってどういうことなんだろう。こんな汚れたドレスで、またホールに戻るつもりなのだろうか。
「アルル……今日は、もう帰ったほうがいいんじゃないかしら。そうだ、私の泊まる宿に来る? そこでなら」
「あーもー邪魔しないで! 私これから仕事があんのよ。今度声かけたら絶交するからねっ!」
口をつぐんだ。こうまで頑なに拒否されては、こちらも何も言えない。黙っていると、アルルはハンカチを取り出し、すれ違いざまに私に押し付ける。とっさに振り向くと、アルルの後ろ姿からぼそぼそと呟きが聞こえた。
「……回帰してるからって、何もかも分かった気になってんじゃないわよ? 私も、いろいろ思い出してるんだからねっ。実家でしこたま頭を打ったときにね!」
「え、……は……?」
いま、回帰って言った?
耳を疑いつつ、振り返る。聞きまちがいじゃない――いろいろ思い出したって。
「待って、アルル」
呼びかけたときにはアルルの背中は小さくなっていた。ホールへ戻っていったのだろう。
そこでキューちゃんがカァと鳴き声を漏らす。
そういえば、キューちゃんが、今日はだいぶおとなしいことに気がついた。家ではいつも、アルルの姿を見ると攻撃していたのに。
「キューちゃん?」
呼びかけると、キューちゃんは応えるように、再びカァと鳴いたのだった。