獣紋の聖女

20-2

 夜のガーデンからは水の音が聞こえていた。
 おそらく近くに噴水でもあるのだろう。水音が鳴るほうへ移動していくと、目論見どおり大きな噴水があり、囲むようにベンチも設置されていた。
 アルルにもらったハンカチを汚してしまうのは嫌だったので、自分のを取り出して水に浸す。
 案の定、甘いジュースはべたべたとしていて、ふき取ったくらいでは綺麗になりそうにない。

(せっかくのウィッグとドレスが……)
 飛び出した自分のせいとはいえ、汚れがついたことにがっかりしてしまう。幸い、地毛のほうまでは影響はないようなので、髪をまとめていたピンを外し、おかしく見えないように整えた。
 汚れたウィッグを噴水のふちに置き、濡れたハンカチでトントンと叩いていく。そのあと、ドレスも同じようにシミ抜きを試みた。 
 どちらも大切なものだ。夜会が終わってもまた使用するのだし、なるべくダメージを最小限にしておきたい。

「……ん?」
 シミが薄くなり始めたあたりで、人の声が聞こえてきた。夜会にきている貴族男性だろう。ひとりではない気配にそっと噴水から離れると、入れ替わるように彼らが入ってきた。

「――ここいらでいいだろう。誰もこんなところまで来るまい」

 息をのんだ。全身が一気に凍り、呼吸が苦しくなる。血液が足元まで落ちる感覚がした。
 だって、この声。

「それで、なぜまだ陛下が生きてるんだ? 公爵領へ入って自害したのではなかったのか? しかも獣紋夜会なんぞへ来るとは……」

 ……え?

「しかし閣下、獣紋の聖女は現れていないはずです。もしそんなのに会っていたなら、ここに来ているはずがない。きっと臆病風に吹かれて自害を止め、戻ってきただけでしょう」
「うむ……ではお前らは引き続き、王弟殿下の懐柔に努めよ。陛下のほうはトランスの光が発生しないかを見張り、もし奴の聖女が現れようものなら、秘密裏に殺せ」
 
 わかりやすく自分の身体が震えはじめた。
 言ってる内容も内容だけど、この声を忘れるはずがない。

(……まさか、トレミーが陛下の死を望んでいたなんて……。それも彼だけではない、「閣下」と呼ばれていた男性はおそらくアレパ侯爵だ。もし、回帰前もこうだったとしたら……?)

「……っ、誰だ!」
 身じろぎした瞬間、庭園の植木にあたってしまった。当然の如く警戒され、足音が近づいてくる。
「カァ……カァァっ!」
 ばさばさと大きな羽音を立てながら、キューちゃんが飛び立った。
 向こうで「なんだカラスか」と男が言い、しばらく沈黙が続く。息を殺して動かずにいるとやがて足音が遠ざかっていく気配を感じ、ほっと息をついた。
 
 秘密の話どころではない。陰謀といってもおかしくないことを聞いてしまった。
 あの人たちは、容赦なく殺人までおかすと言っていた。もし、陛下が回帰前のようにお亡くなりになってしまって、代わりにあの人たちが国政にかかわるようになったら――。
 
(とりあえず、この場を離れなくちゃ)
 お父さまやお兄さまに相談するにしても、ここで見つかれば口封じに殺されるかもしれない。
 そう思って、洗ったウィッグとアイマスクを手に持ち、移動する機会をうかがう。するとまたもや男性の声が聞こえた。
「どうした、トレミー、そろそろ行くぞ」
「いや……少々気になることが。先に戻っていただけますか父上」

 再び、足音が近づいてくる。「なんで!?」と思う。まさか、姿が見えてしまったのか。それとも荒い息づかいがいけなかったのか。
 とにかく気のせいじゃない。まっすぐこちらへ向かってきている。まずい、このままここにいたら見つかってしまう――。

(逃げなくては)
 グッと顎を引き締める。ドレスの裾をつまみ、静かに歩き出した。奥へとにかく奥へ。帰り道がわからなくなってもいい、トレミーに見つかりさえしなければ。
 速度を速める。一瞬、アイマスクを被ってごまかそうとも考えたけれど、ひとたび見つかってしまえば誰何されるに決まっているし、離してもらえるとも限らない。それよりも視界を確保したほうがよさそうだと思って、そのまま移動した。

 茂みをかき分ける音がはっきり聞こえてきた。もう居場所は大体ばれているのだろう。
 靴をとっさに脱いで草の中へ隠し、自身は裸足で駆け始める。
 冷たい夜風が頬をかすめる。草花の甘い香りも、見目の計算された樹木も、この状況ではただの邪魔でしかない。
 ガーデンはどこまでも続いているようで、逃げる方向がわからないまま進んでいく。いっそう高くなった上垣の間を迷路のように駆け巡った。

 ――どれほど走ったのだろう。
 いよいよ息が苦しくなってきた。これ以上走ったら、たぶん動けなくなる。
 荒い呼吸を整えるために、立ち止まることもあったけれど、追手の気配は依然として消えない。

「もう、だめ……」

 これが最後、とばかりに、茂みの角を曲がった。
 すると、そこは先ほどとはまた違う開けた場所であったらしい。遠くに見えたアーチらしき影を目指して走ると、その前に何か柔らかいものに、ぶつかってしまう。
「えっ」
 しまった。――暗くて見落としていた。男たちの仲間が待ち伏せていたのかと思って、とっさに踵を返す。けれど、足が疲労していたせいかターンがうまくいかず、結果、もつれさせてしまった。
「きゃっ」
「おっと」
 軽く肩を抱きとめられる。
 どうやら背の高い人のようだった。その人は暗がりの中、突然現れた私に特に驚く様子もなく、「大丈夫? 遅くまでご苦労さま」なんて、声をかけてくる。
 城の侍女だと勘違いしたのだろうか。月が隠れているせいで、私の衣装まではよく見えないのかもしれない。
 
「ちょうどよかった。君、悪いけど、ホールまで案内をしてくれないか。緊張して、外の空気を吸いに歩いていたら道に迷ってしまってね」
 はっと息をのんだ。
 うつむいたまま、何度も今の声を確かめた。アカデミーの寮で聞いてから、忘れられなくなっていた。この優しげな声は――。
 
「れ……レイフェ、さま?」

 見上げた。まさかこんな場所で会うとは思っていなかった。
 けれど、目の前にいるのはあの人だ。
 追われていることも忘れて、見つめてしまう。

 以前、会ったときに結んであった彼の漆黒の髪は艶やかに降りて、すっきりとした輪郭を形どっている。瞳には夜空の星のような澄んだ光。厚みのある肩は私を包むように屈んで、夜会用の外套(マント)がふわりと風になびいている。
「え?」と彼は短く聞き返す。そのときちょうど雲が晴れ、仄かな月明かりが私たちを照らした。
 
「君……」

 どういうわけか、レイフェさまは私を見るなり、動かなくなってしまった。
 ぶつかったときも動じなかったのに。その瞳には力が込められ、時が止まったように私から目線を外さない。
 それから――突然彼は、私の肩に置いた手に力を込め、傍へと引き寄せたのだった。

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