獣紋の聖女
20ー3
心臓が早鐘のように打ちはじめた。
すぐ傍に、彼の感触と熱を感じて、くらくらと眩暈を起こしそうだ。
どうしてと聞く余裕も出てこない。彼の行動の意味が分からなくて、しばらく言葉を失う。
けれど、すぐ。
「何があったの……髪も乱れているし、足も」
そう聞かれ、理解が追い付いた。彼は私の酷い出で立ちを見て心配してくれたのだろう。いくぶんホッとしながら、声を絞り出した。
「その、追われているんです……っ」
「そう。失礼するよ」
瞬間、ふわっと体が宙に浮いた。彼はそのまま私を抱き上げ、近くにあったらしいベンチにすばやく腰掛ける。
「あの……?」
「その仮面を貸してくれるかな」
言われるまま、持っていたアイマスクを差し出した。彼は女性用であるにもかかわらず自身にアイマスクを着ける。さらに私のウィッグを、まるで元々知っていたかのように私の頭に被せた。
「顔をこちらに伏せておいで。大丈夫、何もしゃべらなくていいから」
こくりと頷く。直後、アーチの向こう側から茂みをかき分けるような音が鳴った。
「……クソっ、どこへ行った!」
トレミーの声に急に体が強張る。こちらに気づいたのだろう。やがて近づく足音に、ますます私は顔をうずめる。
「おい、そこの男。こっちへ女が駆けてこなかったか? 小柄で金髪だ。隠すとためにならんぞ」
ビクッと肩が震えた。やっぱり見られている。しっかり隠れていたつもりだったけど、無駄だったらしい。カメレオン獣は視界も視力も異常なほど優れていたのを、今さらながらに思い出した。
一方で、ジュレさんのウィッグがあったことに心底感謝する。これがなかったら、疑われていたかもしれない。そして、トレミーに……。
「さっさと言え! 俺は急いでるんだ。まさか侯爵令息に逆らう気などあるまいな!」
フッ、とトレミーの鼻息が聞き取れた。
乱暴な言い方に、レイフェさまに申し訳なくなる。いくら仮面をつけた夜会だからといって、礼儀そのものがなくなるわけではない。どうしてこんなに横柄な態度なのだろう。
それに、このままでは私のせいでレイフェさまが侯爵家に目を付けられてしまう――いけない。
とっさに顔をあげようとすると、すぐわかったのかレイフェさまの手が頭の上に添えられる。
「動かないで」の合図だろうか。意外にも力が入っていることに気づき、それ以上動くのをやめた。
一方、レイフェさまは左手を前に出した。横目で見ると、さきほど走ってきたガーデンの向かい側の方向を指さしている。特に言葉をかけないところをみると、この必要最小限の対応でトレミーへの返事をしたらしい。
「フン、反応の鈍い小心者め。恐れて声も出ないのだろう、さっさと教えればいいものを!」
最後に舌打ちが聞こえた。トレミーの足音が遠ざかっていく。茂みをかき分ける音もなくなったところで、ようやく長めの息を吐いた。
一気に体中の筋肉が弛緩する。このままふにゃりと崩れてしまいそうな疲労感が襲った。
「……あっ」
ホッとしたのもつかの間、申し訳ない状況になっていることにあらためて気づく。
すぐに姿勢を正し、謝罪をしようとしたところ、「すみません」の「す」を言ったあたりで、レイフェさまが立ち上がった。
「え、あの――」
再び抱き上げられる格好になってしまい身じろぎをする。するとマスクを外し、困ったように笑うレイフェさまと目が合った。
「ごめんね。怖い思いをさせて。少し、観察しておきたくてさ」
「そんな。あなたさまのせいでは」と首を振る。同時に、何を観察したのだろうという疑問がわいた。
さっきのトレミーの様子から、変な誤解をされていないかと不安になる。獣紋夜会で男性が女性を追いかけるなんて、痴情のもつれにしか見えないだろう。そう思われているとしたら、恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「先ほどのことなのですが……」
「うん?」
言いかけて、やめた。
レイフェさまにとっては、私の事情なんてなんでもないことだ。
それより、なぜこんな体勢になっているのかが気にかかる。「もう歩けますので」と伝えると、レイフェさまは笑顔のまま、私の目を覗きこんだ。
「裸足だからね、このまま戻ったほうがいいね。にぎやかな方へ歩いていけば、いずれ着くんじゃないかな」
そういえば、道に迷ったとか言っていたような。もしかしたら彼も夜会には慣れてない人なのかもしれない。なら、なおさら――。
「これ以上、ご迷惑をおかけするわけには」
「彼にまた会ったらどうするの?」
そこで、つまる。
追いかけてきたということは、疑いが強かったということだ。さっきの話を聞かれたと、あちらが本気で思っているのなら、次に会ったときに逃げ切れる自信がない。
結局、頼ることになってしまうと知り、唇を噛む。あまりの申し訳なさに、もう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。
「大丈夫。安心して。僕にとっては幸運だから」
え? と顔をあげる。レイフェさまは、穏やかに微笑んだままだ。どの辺が幸運といえるのかわからなくて、何も言葉を返せずにいると――。
「……せっかく君から飛び込んできてくれたんだ、離すつもりはないよ」
ぽつりと呟いた。
責任感の強い方なのかな? と思う。
どちらにしろ、今夜は一人では動けない。しばらく妙な浮遊感に抱かれながら、今はレイフェさまの親切に甘えることにしたのだった。
すぐ傍に、彼の感触と熱を感じて、くらくらと眩暈を起こしそうだ。
どうしてと聞く余裕も出てこない。彼の行動の意味が分からなくて、しばらく言葉を失う。
けれど、すぐ。
「何があったの……髪も乱れているし、足も」
そう聞かれ、理解が追い付いた。彼は私の酷い出で立ちを見て心配してくれたのだろう。いくぶんホッとしながら、声を絞り出した。
「その、追われているんです……っ」
「そう。失礼するよ」
瞬間、ふわっと体が宙に浮いた。彼はそのまま私を抱き上げ、近くにあったらしいベンチにすばやく腰掛ける。
「あの……?」
「その仮面を貸してくれるかな」
言われるまま、持っていたアイマスクを差し出した。彼は女性用であるにもかかわらず自身にアイマスクを着ける。さらに私のウィッグを、まるで元々知っていたかのように私の頭に被せた。
「顔をこちらに伏せておいで。大丈夫、何もしゃべらなくていいから」
こくりと頷く。直後、アーチの向こう側から茂みをかき分けるような音が鳴った。
「……クソっ、どこへ行った!」
トレミーの声に急に体が強張る。こちらに気づいたのだろう。やがて近づく足音に、ますます私は顔をうずめる。
「おい、そこの男。こっちへ女が駆けてこなかったか? 小柄で金髪だ。隠すとためにならんぞ」
ビクッと肩が震えた。やっぱり見られている。しっかり隠れていたつもりだったけど、無駄だったらしい。カメレオン獣は視界も視力も異常なほど優れていたのを、今さらながらに思い出した。
一方で、ジュレさんのウィッグがあったことに心底感謝する。これがなかったら、疑われていたかもしれない。そして、トレミーに……。
「さっさと言え! 俺は急いでるんだ。まさか侯爵令息に逆らう気などあるまいな!」
フッ、とトレミーの鼻息が聞き取れた。
乱暴な言い方に、レイフェさまに申し訳なくなる。いくら仮面をつけた夜会だからといって、礼儀そのものがなくなるわけではない。どうしてこんなに横柄な態度なのだろう。
それに、このままでは私のせいでレイフェさまが侯爵家に目を付けられてしまう――いけない。
とっさに顔をあげようとすると、すぐわかったのかレイフェさまの手が頭の上に添えられる。
「動かないで」の合図だろうか。意外にも力が入っていることに気づき、それ以上動くのをやめた。
一方、レイフェさまは左手を前に出した。横目で見ると、さきほど走ってきたガーデンの向かい側の方向を指さしている。特に言葉をかけないところをみると、この必要最小限の対応でトレミーへの返事をしたらしい。
「フン、反応の鈍い小心者め。恐れて声も出ないのだろう、さっさと教えればいいものを!」
最後に舌打ちが聞こえた。トレミーの足音が遠ざかっていく。茂みをかき分ける音もなくなったところで、ようやく長めの息を吐いた。
一気に体中の筋肉が弛緩する。このままふにゃりと崩れてしまいそうな疲労感が襲った。
「……あっ」
ホッとしたのもつかの間、申し訳ない状況になっていることにあらためて気づく。
すぐに姿勢を正し、謝罪をしようとしたところ、「すみません」の「す」を言ったあたりで、レイフェさまが立ち上がった。
「え、あの――」
再び抱き上げられる格好になってしまい身じろぎをする。するとマスクを外し、困ったように笑うレイフェさまと目が合った。
「ごめんね。怖い思いをさせて。少し、観察しておきたくてさ」
「そんな。あなたさまのせいでは」と首を振る。同時に、何を観察したのだろうという疑問がわいた。
さっきのトレミーの様子から、変な誤解をされていないかと不安になる。獣紋夜会で男性が女性を追いかけるなんて、痴情のもつれにしか見えないだろう。そう思われているとしたら、恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「先ほどのことなのですが……」
「うん?」
言いかけて、やめた。
レイフェさまにとっては、私の事情なんてなんでもないことだ。
それより、なぜこんな体勢になっているのかが気にかかる。「もう歩けますので」と伝えると、レイフェさまは笑顔のまま、私の目を覗きこんだ。
「裸足だからね、このまま戻ったほうがいいね。にぎやかな方へ歩いていけば、いずれ着くんじゃないかな」
そういえば、道に迷ったとか言っていたような。もしかしたら彼も夜会には慣れてない人なのかもしれない。なら、なおさら――。
「これ以上、ご迷惑をおかけするわけには」
「彼にまた会ったらどうするの?」
そこで、つまる。
追いかけてきたということは、疑いが強かったということだ。さっきの話を聞かれたと、あちらが本気で思っているのなら、次に会ったときに逃げ切れる自信がない。
結局、頼ることになってしまうと知り、唇を噛む。あまりの申し訳なさに、もう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。
「大丈夫。安心して。僕にとっては幸運だから」
え? と顔をあげる。レイフェさまは、穏やかに微笑んだままだ。どの辺が幸運といえるのかわからなくて、何も言葉を返せずにいると――。
「……せっかく君から飛び込んできてくれたんだ、離すつもりはないよ」
ぽつりと呟いた。
責任感の強い方なのかな? と思う。
どちらにしろ、今夜は一人では動けない。しばらく妙な浮遊感に抱かれながら、今はレイフェさまの親切に甘えることにしたのだった。