獣紋の聖女

 何度も見た。けれど、この人とは見たくなかった――。
 鮮やかなピンクゴールドの光が私たちを包みこみ、辺りを覆った。
 トレミーは光の中で私の腰を捕らえる。うつむいた私の顔を、顎をつまんで強引にあげさせ、じろじろと物色するように眺めた。

「やはりお前がコルオーネだったか。妹のほうを泳がせた甲斐があったな」

 心臓がぎゅっと縮み上がる。トレミーの薄い笑いも、仕草も、言葉も、恐怖でしかない。
 抗おうにも力は出ず、叫ぼうにも息ができない。まるで天敵にあった小動物のように、情けなく、カタカタと震えるばかりだ。

「どうした? 今はトランスインプレの直後だからな。本来ならお前ごときに礼など尽くさぬが、しばらくは丁重にもてなそうではないか。我が、未来の妻よ」

 開き直った言い方だった。回帰前は甘い言葉をささやいて騙していたけれど、今回はもう、力で押さえつけるつもりらしい。
 トレミーの顔が眼前に迫る。キスされると思い、反射的に突き飛ばした。
 ところが彼はそれが気に入らなかったらしく、拒否されたとわかった瞬間、腕を振り上げる。
 直後、私は地面に倒された。何が起こったのかわかったのは、口の中に広がる血の味に気づいてからだった。

「このクソ女が……っ、身の程を知れ! 俺のいうことを聞かぬなら、妹の処遇を変えるぞ!」

 はっとする。再度アルルを見ると、男二人に抑えられ、立ち膝の体勢でぐったりとしていた。
 同じようにぶたれたのか、アルルの口からも血が流れ出ている。私より、もっと多くの傷を作っていた。
「アルル……っ」
 身を起こし、アルルのもとへよろよろと歩いていく。行ったところで何になるのか――けれどただ、アルルを抱きしめたかった。

「やめて。酷いことをしないで……っ」
 アルルを拘束している男性に告げるけど、何の反応もない。もちろんアルルの拘束が解かれるはずもなく、私はアルルの頬を撫でた。
「アルル……私よ、わかる? 返事して」
 意志に反して涙が出てしまうのが、たまらなく悔しい。
 呼びかけるとアルルは瞼をピクリと動かし、長い睫毛を上に開いた。
「お……お姉さま?」
 瞬き、掠れた声で応えた。

「……バカ、あんたが捕まったら意味ないじゃない……っ!」
 アルルは私を叱り、ギリと睨む。けれどその視線は私ではなく、私の背後にいっている。
 ふり向くと、トレミーが立っていた。
 トレミーは歩をつめ、私を手でのけながらアルルの腹を蹴った。「やめて!」と叫んでもまるで聞いてないようだ。

「……フン、犬のようだな、アルイーネ。俺の弟を利用してこそこそ嗅ぎまわっていたようだが」
 と、自ら顎を突き上げる。それが合図だったようで、アルルの拘束が解けた。
 アルルは座位が保てないらしい。くにゃりとアルルの身体は折れ曲がり、傍にいた私が受け止める格好になった。

「お前のことは拷問にかけてから殺すつもりだったが、こうして姉のほうを捕まえたのでな。ちょうどいい、人質として生かす道を残してやろう」
 トレミーが私の前にかがむ。それから口元を歪め目を細めた。

「コルオーネ。俺の妻になると誓え。そうすれば妹の命は助けてやる」
 息をのんだ。
「どうした? 悪い話では無かろう。婚姻後はお前に屋敷をあてがい、ドレスも宝石も用意してやる。ただし、俺は愛人を作るし、お前を社交界には出さないがな」
 私の腕をつかむアルルの手に力がこもった。

 貴族間の獣紋結婚といえば、愛人は持って当然のような空気がある。だから、もしそうなったとしても、後ろ指をさされるようなことはないだろう。けれど――。

「……断ったら?」
 訊くと、トレミーは眉をひそめた。
「妹は地下に監禁し、お前は奴隷だ。お前のような低ランクの聖女など、飯を食わせてやるだけで十分だからな。十年、俺のために祈れ」
 低ランク、というからにはトレミーは一瞬で私の手の甲を確認したのだろう。
 今、カメレオン紋以外の獣紋は化粧で隠している。そのあとすぐに光が出たから、じっくり調べることはできなかったはずだ。
 私は左手をアルルの背に隠し、じっとトレミーを見返した。
「さぁ、どうする? 妻として最低限の生活を手に入れるか、奴隷として過ごすか、だ。お前が大バカ者でなければ、簡単な選択だと思うが」
「……ふふ」
 つい笑ってしまった。そのことでトレミーは眉をあげたけど、どう思われてもかまわない。

 最低限の生活。回帰前の、一人ぼっちで過ごした五年間……あれが奴隷でなくてなんなのだろう。
 なにひとつ真実のない言葉、虚の愛情。時計が意味をなさない部屋で、呼吸を止められるような感覚。失っていくばかりの哀しさ……。
 結局、どちらを選んでも私はトレミーのために生きなくてはならないのだ。あらためて、小さく、滑稽な人生だと思う。
 ――でも、今はアルルを助けなくては。
 私が同じ運命をたどることになっても、アルルが不幸になっていいわけがない。

「……わかりました。あなたの妻になります」

 告げたとき、心が冷えていくのを感じた。でも仕方がなかった。お兄さまだって心配していた。アルルを、頼むと。
「だから、アルルを傷つけないで」と忘れずに付け加える。それを聞いたトレミーは、鼻で笑う。立ち上がり、アルルの髪を引っ張って顔を上にあげさせた。
「いいだろう。ならばアルイーネ、お前が持っていた例のアレを出してもらおうか。あれは――俺ら家門にとって都合の悪いものなんでな」
 アルルは血の流れる唇を動かし、答えた。
「……おあいにくさま。あれはもう私の手元にはないのよ。数日前に、ネイジアの獣人墓地に隠したの。今ごろ騎士の調査隊が見つけているかもね」
「なんだと?」
 トレミーは一瞬で表情を怒りに変え、目の前のアルルを殴り倒した。
「やめて! 約束が違うわ!」
 音もなく崩れるアルルを抱きかかえ、トレミーを見据える。けれど彼は、チッと舌打ちし「しつけてやってるんだ、ありがたく思え!」と吐き捨てるように言った。

「急ぎネイジアの墓地に向かうぞ。こいつらは、事が済むまで例の部屋に放りこんどけ!」

 トレミーは背を向ける。
 命を受けた無口な男たちは二手に分かれ、一方はトレミーを追い、一方は私たちを囲んだのだった。


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