獣紋の聖女
「え……コルル? なぜ、君がここに……?」

 数秒ほどしてから、彼の声が頭上に降ってくる。いきなり現れた私に戸惑っているらしい。
 私は私で、彼が無事だったことに心の底からホッとする。髪と衣服が乱れ、あちこちに傷がある彼の様子からは濃い疲労が見てとれた。けれど、それでも生きていてくれたのが嬉しくて、涙がひっきりなしに出てしまう。
 言葉を紡ごうにも、喉が震えてうまくいかない。

「ダメだよ、こんなところに来ては」

 まるで緊張感のない声で言うレイフェさまは、どこまでもいつものレイフェさまだった。それがまた嬉しくて喉が詰まる。
「け、怪我されて……血が。レイフェさまを助けたくて……っ」
 かろうじてそう告げると、レイフェさまは金の刺繍の入った紫紺色の外套(マント)を脱ぎ、それで私の身体を包んだ。

「君のほうが、大事だよ」
 外套の上からあたたかさが宿る。
 腕の重みが嬉しくて、思いが溢れて、つい口に出してしまった。

「レイフェさま……死なないでください。私、あなたが――」

 好き、と告げた。
 聞こえるかどうかわからないほど、小さな呟きだったけれど彼には届いたらしい。
 瞬間、彼の動きが止まる。
 彼は驚きの表情で、私の瞳を覗き込む。掌が私の頬に触れたので、ゆだねるように目を閉じた。

「コルル、今――」
「……はい、あなたが好きです。最後に、これだけ伝えておきたくて」
「最後?」

 そう、最後だ。だって私は、もうトレミーと約束してしまったから。
 これでいい。もうこれで十分だ。
 妻になる前に、言えた。レイフェさまに伝えられたのだと思い、言ったそばから涙がとまらなくなる。それが告白できた喜びなのか、恋が実らないことの哀しみなのかはわからなかった。

 彼は私の涙を拭ったあと、一瞬、抱き寄せた。
 それにどんな意味があるのかはわからなかったけれど、やがて身体を離す際に、額に唇が触れた。

「――ラピス、どうして」
 レイフェさまの視線がラピスさまへ移る。
 ラピスさまは問いには答えず、私に向かって話した。
「コルル、さっきのメモに書かれた祈りを唱えて。それで終わるから」
「メモ?」
 レイフェさまが眉を上げる。メモのことは彼も知らないらしい。
「さぁ、コルル、頼むよ」
 促される。ラピスさまを信じて、私は例の祈りの文を思い出す。
 メモはポケットに入っていたけれど、一度読んだその祈り文は忘れることなく、不思議と記憶にしっかり残っていた。


『竜の膝で眠るいとし子よ、天の祝福と共に汝を包まん。

 深き安らぎの風が、汝の心を穏やかに撫で、光の道が、汝の歩みを照らさん。

 罪も悲しみもこの身に届かず、清き愛が汝を守り導かんことを。

 星々の瞬きと共に、天上の神が汝を見守り、大地の声が、汝の魂に調和をもたらさんことを――』


 
 唱えると、視界が光で満たされていくのがわかった。
 刺すような痛い光ではない。雪の様に柔らかな白と、澄んだ清浄な空気が私たちを囲んだ。
 瞼を閉じると、とてつもなく心地良い空間にいるように思える。
 まるで夢の中で、新しく生まれ変わったような。ありとあらゆる祝福が、包んでいるようなーー。
 
「え……」

 再び目を開けると、驚くべきことが起きていた。
 レイフェさまが、姿を変えていた。少なくとも話に聞いていた猫獣ではない。
 そこにはリムディア国のもうひとりの主神、竜神グランディスを思い起こさせるような、巨大な竜が佇んでいたのだった。



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