獣紋の聖女
「こんにちは、コルル。今いいかい?」
「……よくないです」
首を振った。
だって、お化粧をしていない。髪も服も簡素すぎる装いで、何より心の準備がまだ出来ていない。
するとレイフェさまは穏やかに笑い、傍へやってきて、私に紫色の花を差し出した。
「ようやく事後処理が落ち着いてね。君の体調も回復したって聞いたから」
「それは……お気にかけてくださり、ありがとうございます……」
どうやらこのお花はお見舞いの印らしい。紫といえばリムディアの民に一番好まれる色だ。紫苑色の花は清廉で、レイフェさまのように優しい香りがする。
「ネイジアでのことだけど」
心臓が鳴った。やっぱり、あのことに対するお返事らしい。
怖くて、足が震える。もし断られてしまったら、もう恋なんかできそうにない。胸が、つぶれてしまうかも。
ところが彼は私の手を取り、その上に儀礼的なキスを施した。
騎士らしい所作に、はっとしてしまう。レイフェさまの仕草は、騎士のそれと同じでも、優しく、物腰が柔らかい。
気がつけば周りに動物たちが集まってきている。皆、レイフェさまに寄ってきたのだろう。
まるで私たちのことを見守っていてくれるように、どの子も澄んだ目をしている。
「コルル。ひとまず、君の告白は聞かなかったことにするからね。……あとで思い出すけど」
「え?」
言ってる意味がわからなくて、戸惑ってしまう。
レイフェさまの真意が知りたくて、真黒な瞳を目で追った。
聞かなかったことにする。それはやっぱり迷惑だったということなのか。
だったら……私の心は、どこにいけば――。
「なぜなら、それよりも前に、僕が君に心を奪われてしまっていたから。あの湖畔での出会いから……君を忘れられなくて、追いかけて、やっと手の届く所まできた」
手に力がこもった。
顔をあげる。彼の言葉を、胸の中で幾度も繰り返す。
指先からの震えが止まり、かわりに熱が流れる感覚がした。
「だから、先に愛を乞うのは僕のほうだ。コルル……君さえよければ、僕を受け入れてほしい」
――そのとき、私はどんな顔をしていたのだろう。
一秒、二秒……動けなくて、ただ目の前の人を見つめていただけだった。
夢のようだった。
言葉はもちろん出なくて、目尻に雫が溜まっていく。
嬉しいのに。嬉しさを伝えたいのに。もう、体に力が入らなくなって、崩れそうになる。
感情の行き場がなくて、顔もくしゃくしゃになっていく。恥ずかしくて、仕方なくそれを手で隠すと彼は私を胸にそっと抱いた。
「……嬉しい、です」
「うん」
「私も、あなたが――」
言い終える前に、レイフェさまのキスが頬におちた。
それは、くすぐったくて、蕩けそうになるほど、優しいキスだった。
「……ずっと、ひとりで逝くのだとばかり思っていた。たくさんの、大事なものを残して」
レイフェさまの声は震えていた。
けれど、ひとつひとつの言葉が思うよりも強く響いて、私の心を疼かせる。
「でも君に出会って、世界が変わった。僕は――君に会うために生まれてきたんだ」
そう言って、彼はもう一度、私を抱きしめる。
今度は苦しくなるほど、強く。
【完】