熱情を秘めた心臓外科医は 引き裂かれた許嫁を激愛で取り戻す
 とっくに破談になったのに今さらこんな気持ちを抱えてもどうにもならない。
 そう、本当に今さら……どうしようとは思っていない。
(……この気持ちは、私だけのものでいい。大切に封印しておきたい)
 けれど。いつかは周りがそうはさせてはくれないことだっていずれ出てきてしまうのだろう。
 不意に、看護師たちの噂話が脳裏を蘇ってくる。
『その縁談……の話は前から出ていたみたいよ』
『どんな方なんでしょう』
『二つくらい年下……とか』 
 わかっていたことだ。架純が知らないだけで彼は誰かと付き合っていたかもしれないということも、彼がいつかは他の誰かのものになってしまうことも。
 長い片思いはまもなく終わってしまうのかもしれない。いっそもっと早く終わらせるべきだったのかもしれない。結ばれる運命にはない二人であることなんて自分が一番よくわかっていたはずなのに。
「……はぁ」
 診察室から出たあとの待合室にはポツポツとした人しか残っていなかった。架純で午前中の外来では最後の診察だったらしい。平常心を取り繕うおうと気を張っていた架純はすっかり脱力してしまい、よろめくようにソファに座り込んだ。
 喉の渇きを覚えて水筒の水で少し潤す。そのとき蓋を締める手に力が入らずに震えていることに気付いた。
 そういえば、呼吸が乱れている気がする。息がしにくくなっている気がして思わず胸のあたりをおさえた。やがて痛みがちくちくと神経に沿って這い上がってくるのを感じた。
(だめ。深呼吸をしなくちゃ……)
 ごくたまに手術のあとの幻痛がこうして現れるときがある。それが引き金になってパニック発作の過呼吸が起こることは、もう自分でわかっていた。
(これは心臓の方の発作ではないから、大丈夫よ、大丈夫……落ち着いて)
「架純?」
 呼び止められて架純は顔を上げた。血の気が引いて霞んだ視界に飛び込んできたのは、白衣を着た理人の姿だった。
「平気……です。疲れからくる過呼吸の方だと思うから、心配しないでください」
 そう。ひょっとしたらこのまま死ぬのではないかという気持ちになる。それがなおさら脳の混乱を招くが、実際は死ぬわけではない。パニック発作はそういうものだと自分で何度も経験してきた上で対処する方法を心得ている。
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