熱情を秘めた心臓外科医は 引き裂かれた許嫁を激愛で取り戻す
 彼の厚意に甘えるだけ甘えてきた上に、事情も話さずに転院したいという架純に失望してしまっただろうか。でもかえってその方が都合がいいかもしれない。いつまでも後ろ髪引かれるような気持ちでこの病院をあとにするのをやめたい。そう考えたからこそ転院することに決めたのだから。
「……よろしく、お願いします」
 架純はそれだけ伝えて深々と頭を下げた。
 今までお世話になりました、とまでは口にできなかった。それはまた時期を改めてからでいい。そうでなければ、一気に寂しい気持ちがこみ上げてきて泣いてしまいそうだったからだ。
「はぁ……」
 重苦しいため息が何度もこぼれる。けれど、伝えることはできた。まずは一段階、先に進めたと思いたい。
 帰り際にナースステーションの方にも挨拶をしようと顔を出すと、看護師がやってきてくれた。
「久遠さん、どうなさいましたか」
「実は、他の病院に行くことになったので、先にご挨拶をしておこうと思って……」
「あら。そうだったんですか」
 驚いたような顔をした看護師だったが、それでもその表情には感情を乗せることはしなかった。プロとして患者の事情に踏み込まないのはあたりまえのことだと思ったのだが。
「それじゃあ、先生もひと安心ですね」
「え?」
「院長の紹介だとかで、結婚を考えていらっしゃるみたいだったから。ほら、元婚約者が近くにいるとなると、お相手の方も気になさるでしょうし……」
「……っ」
 架純はさっき理人に告げた言葉が、自分にそっくりそのまま返ってきたことに息を詰まらせた。
「あ、ごめんなさい。久遠さんがどうというわけではないんですけれど、あの、お互いに気まずいと思うから」
 看護師は慌てたように声を潜める。けれど、なんとなくだが、さっきの方が彼女の本音なのだろうというのが伝わってくる。
「仰る通りだと思います。今まで大変お世話になりました。他の看護師さんたちにもよろしくお伝えください。では、私はこれで失礼します」
 架純はそれ以上、自分が傷つかないように予防線を張る。そうして逃げることだって悪いことじゃないと思う。架純は相談相手のハルの言葉を思い出していた。
『……立ち向かうことだけが、正しいわけじゃないよ。告白しないで失恋することだって選択肢の一つだと思う。それってある意味、相手へのひとつのやさしさでもあるんじゃないかな』
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