熱情を秘めた心臓外科医は 引き裂かれた許嫁を激愛で取り戻す
 好きな人はいる。その人は目の前の人で、それ以外に好きな人はいない。恋愛したいと思う人は、他にはいない。
 せめて二重の嘘で窒息してしまわないように、架純は素直に伝えるほかなかった。
「これから好きになる人ができればいいなって思ってます。私では、なかなか難しいかもしれないけれど」
 理人はどう受け取ったのか、彼の方こそ複雑そうな顔をしていた。
「そんなことない。君は充分そのままで素敵な人だ」
 きっぱりと言い切った理人のその表情に、架純は複雑な気持ちになってしまった。
 架純の存在を認めてくれる一方、彼以外の人との幸せを願ってくれている、その彼の想いに苦しくなってしまう。
「……ありがとうございます。先生」
「もう俺は、君の先生じゃないよ」
「……先生じゃなくても、理人さんは素敵な人です」
 少し照れたようにかつ困ったように微笑む理人のその表情が、架純は昔から好きだった。
 好き……という気持ちが溢れてしまう前に、今日はなるべく早く帰った方がいい気がした。
 足を動かしたそのとき、絨毯に埋もれたつま先に躓いてしまう。
「あ、……」
「足元が暗い上に、傾斜があるんだ。危ないから」
 理人はそう言い、架純の手を握った。
 まだ、帰してくれないつもりらしい。
 前だったら無理はしないように、架純を送り届けることを優先していたのに。
 触れている指先が甘く痺れていく。大きな手のひらに包まれていると安堵を覚えたそばから意識して汗ばんでいってしまう。
 架純は薄暗い中で理人を見つめた。
 もしかして繋ぎ留めようとしているのだろうか。
 それは何のために?
 期待してしまいそうになる気持ちをぐっと抑えて、架純は唇を噛んだ。
 架純の心臓の病の症例を自分で診たかったから? 本当は紹介状なんて書きたくなかった?
 何を問うたとしても彼を困らせるに違いない。
 だから架純は浮かんでくる期待や疑問をゆっくりと自分の中に沈めこんでいく。そして水槽の中で優雅に泳ぐ魚たちの群れに目を向けた。
「綺麗。まるでドレスを着ているみたい」
 開かれた海の世界の美しさに感動した。水族館という閉塞した世界の中にある、ひとつの輝かしい場面に、心を奪われていく。
「可愛い! マーメイドの映画に出てきていた、あの魚はなんていう名前だったかしら、理人さん」
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