熱情を秘めた心臓外科医は 引き裂かれた許嫁を激愛で取り戻す
 彼を責めないような言葉を探して、唇を開きかけたとき、着信の音が鳴った。
「ごめん。オンコールだ」
 架純はハッとする。
 そうだ、理人には医師としての使命がある。休みの日だとしても呼び出されることがあるのだ。事前にそれは承知していたことだった。
「タクシーつかまえるよ。この埋め合わせはまた今度。君はひとりでうちに帰れる?」
「私は大丈夫です。先生こそ急いでください」
 先生、と呼んだことに理人は今度は反応をしなかった。もう彼は医師の顔になっていた。
「ごめんな。じゃあ、また連絡する」
 ぽんとやさしく頭に手を置かれて、架純は頷く。
 また、と言ってくれた。
 カフェの帰りと同じように。
(また会っていいの……? どうして?)
 それから先に去って行った理人のことをぼう然と見送る。
「お客さん、乗りますか?」
「はい、お願いします」
 架純も慌ててタクシーに乗り込む。
 聞けなかった言葉が、沈んでいた想いがふわふわと浮いては架純の心を支配していく。
(理人さん……)
 忘れようとしていたのに。
 離れようとしていたのに。
 どうしてあんなふうに触れたの。
 理人の考えがわからなかった。
 けれど、架純も自分のことがわからなくなりそうだった。彼から離れたい、そうすべきだと思うのに、また会えるかもしれないという期待を捨てきれない。
 タクシーが家の前に着いたあと、架純は近所を散歩をしていた犬とご主人がじゃれ合っているのを見た。
 ご主人は犬をやさしく抱き寄せ、犬はご主人の頬をぺろりと舐める。その行為はよくある愛情表現のひとつだ。
 架純は理人のことを思い浮かべてため息をついた。
 あれは、深い意味などなかったのかもしれない。だから彼も何も言わなかったのだろう。
 キスなんかじゃない。
(そうよ。勘違いしちゃだめ)


***


 理人は病院に向かうタクシーの中、そういえば持っていたデイバッグの中に架純のストールが入っていたのを今さら思い出した。それは、先日のカフェの帰りに架純が落として忘れていったものだ。
 これを持っていればまた会える口実になるかもしれないと期待しつつも、彼女もきっと困るだろうから、水族館で会ったときに早めに渡そうと思っていたのだが。
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