熱情を秘めた心臓外科医は 引き裂かれた許嫁を激愛で取り戻す
 理人が慌てて架純を支えて顔を覗き込んでくる。そんなふうに名前で呼ばれることにもドキドキしてもう何がなんだかわからない。
「知りません。理人さんのバカ……バカ、バカ……」
 架純はそう繰り返すだけ。完全にキャパオーバーだった。子どもみたいな言い分でしか反論できない。
 ふにゃりと力が抜けた架純を、理人がばつのわるい表情を浮かべて抱き上げた。
「ごめん。俺は別に君で遊んだつもりはなかったんだが……本音をいうだけでも意地悪になるのか。参ったな」
 攻め過ぎたと思ったのか、理人は甘いため息をつく。それすらも溺愛攻撃の一手となりかねない。
 架純は思わず彼の口を手で塞いで、目隠ししてしまいたい衝動に駆られてしまう。
「もう、何も言っちゃダメです。禁止」
「……はい。口をきいてもらえなくなるのは困るから、わかった。しばらく黙るよ」
 理人は笑って架純をソファに丁寧におろしてくれた。それから彼はキッチンの方へと行き、冷蔵庫を開いたらしい。
「冷たい飲み物……また用意するよ。待っていて」
 テーブルの上に置いてあった空いたグラスは彼の手に回収されていく。
 架純はドキドキとした鼓動を感じながら火照った頬を手で仰ぎつつ、理人の背を目で追った。
 氷がカランとグラスを鳴らす音が聴こえる。キッチンに立っている背の高い彼を見つめていると、不思議な気持ちになってしまった。
 夢ではない現実。
 それでも泡沫の夢には変わりない。
 さっきの甘いやりとりだって本物ではない。ただの演技。仮初の妻と夫。契約で結ばれた関係。結婚だって契約の一つだけれど、その意味は天と地ほどの差があるもの。
 そう思えば思うほど、身体を支配していた熱はだんだんと逃げていく。代わりにこみ上げてくるのは彼をひどく恋しいと思う気持ちだった。
「お待たせ」
 理人がもってきてくれた飲み物に、架純は一瞬にして目を奪われた。
 鮮やかなマゼンタ色の波がグラスの中で揺れている。ハイビスカス或いはローズヒップだろうか。上に乗せられた輪切りのレモンスライスには艶があった。あらかじめシロップ漬けにしてあったもののようだ。少しだけ炭酸が含まれているのか、静かな気泡がふわふわと上がっていく。表面にそっと緑色のミントが添えられているのも綺麗だった。
「綺麗……」
 架純は人魚姫の世界みたいな水族館のことを思い出していた。
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