第三幕、御三家の矜持
 それ自体は、どうでもいいはずなのに、急に怖くなった。お陰で足を止めてしまう。鶴羽樹の声で気が付いた月影くんも立ち止まって振り返った。

 別に、死んでもいいはずなのに。怖い。階段をのぼっているときに転んだことなんてないはずなのに、その未来が容易に想像できてしまって、怖い。この刃物は、首の皮に沈んで、肉を押し広げ、骨に当たるまで私の中に入ってくることができる。


「おい幕張ぃ、お前が、怖いとか言うわけねーよな?」


 ぴた、ぴた、とナイフが動かされた。刃が何度も首を突く。

 怖くない、はずなのに。


「鶴羽、やめろ」

「幕張が歩けば何もしねーよ」

「ナイフを離してやれ」

「逃げんだろ」

「逃げない」

「信用できねーなぁ」

「俺が代わろう」

「女がいんのに男選ぶわけねーだろ」

「俺がお前に勝てるはずがない」

「確かに幕張とどっちかって言われたらお前のほうがザコいかもしんねーな。でもさぁ、マジ笑えんのが」


 そこで、ぐん、と腕が掴まれた。抵抗した拍子に首が切れるのも怖くて、間抜けにぷらぷらと腕を振られるがままになる。


「コイツ、びーっくりするほど力弱ぇんだ。そういや幕張って素手で人殴ってんの見たことなかったな」


 やっぱり、幕張匠を知ってる……。思わず唇を噛んだ。

 つまり、私が月影くんを巻き込んだ。


「ってわけで、行くぞ幕張」

「……ナイフ、せめてお腹とかに当ててくれない?」


 声が震えていた。鶴羽樹は「ばーか」と笑いながら拒絶する。


「甘えてんじゃねーよ。さっさとこのまま歩け」


 わざとらしさのない声は譲歩などしてくれなかった。なんなら、ナイフは先を促すように首に押し付けられる。ほんの少しでも手がぶれれば、剃刀(かみそり)でするようにスーッと皮が一枚切られてしまうだろう。

 恐々(こわごわ)と、もう一歩踏み出した。鶴羽樹はナイフと共にぴたりと私から離れない。そのままゆっくりと、一段一段を踏みしめるように上っていく。心配そうにこちらを見ていた月影くんも、ゆっくりと上へ向かう。

 三階に足を踏み入れた瞬間、ドッと体から恐怖が半分抜けていった。これで、転ぶ確率はぐっと低くなった。少しとはいえ、そんなことで安堵するなんておかしいのだと、気付くほどの余裕はなかった。


「生徒会室の二つ奥の(へや)だ」


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