第三幕、御三家の矜持
 桐椰くんを前にしたときに必ず感じてしまう、我儘な苛立ち。そのせいでいつだって、まともに感情は噛みあわない。

 今だってそうだ。大声に慣れない喉は、悲鳴のように耳障りな音を出した。急に名前に反応した私に、桐椰くんは怯んだ。

 桐椰くんだけはなんだかんだ私の面倒を見てくれて、桐椰くんだけはいつも仕方なさそうに私を許してくれて……桐椰くんだけが、私の名前を呼ぶ。

 本当は桐椰くんだけじゃないけれど、いつも、桐椰くんだけが呼んでくれる気がした。最初は驚いたし、あんまり呼ばれることはなかったけれど──……きっと、私は、呼ばれる度に嬉しかった。

 だから、聞き続けるのが苦しかった。桐椰くんの輪郭が僅かに(にじ)んだ。


「亜季なんて、呼ばないでよ」


 大嫌いな名前を口にした声は、震えた。

『なんで亜季だけが生きてるの?』

「名前なんか呼ばれたって嬉しくないのに」


 詰責(きっせき)のように聞こえるそれは、ただの八つ当たりだった。

『亜季は要らなかったのに』

 いつだって脳裏に浮かぶのは、泣いているお母さんだ。

『亜季じゃなくて、匠が生きててくれればよかったのに』

  “私”への疑問を、お母さんは、いつだって譫言(うわごと)のように繰り返し、枕詞のように用い、讒言(ざんげん)のように吐き捨てた。だから私は“幕張匠”になった。“幕張亜季”じゃなくて“幕張匠”なら生きててよかったって言ってくれると思ったから。“私”も生きてていいんだって思いたかったから。


「なんで、私の名前なんか呼ぶの?」


 でも結局、お母さんが“私”の生きてる価値を認めてくれたことなんてなかった。

 一生言うつもりなんてなかった思いを言葉にして吐き出すと、余計に苦しくなった。このままこの苦しみに(くび)り殺されたかった。こんな苦しみと一緒に生きたくない。捨てられないなら殺してほしかった。

 それでも。


「……好きだからだよ」


 掠れていて、今にも泣きだしそうで、嘆きに似た告白が。


「……好きだから、名前を呼んだ」


 ぎゅう、と別の苦しみを伴って、喉を締め付ける。

 きっと、その苦しさは、桐椰くんから伝染したんだろう。感情を必死に堰き止めているような桐椰君の表情を見れば、そうに違いなかった。


「……だから……」


< 384 / 395 >

この作品をシェア

pagetop