修道女のお菓子 〜シスターエルフのレシピと事件簿
同じ時刻、その少女は帰り仕度をしていた。
毛織り物加工のギルドで染色見習いをしている少女は、職人が帰った後の染料や桶の片づけが当番の仕事だった。
「すっかり遅くなったわ」
すべての作業が終わり、糸から染めた自作のスカーフをていねいにたたむ。
明日、ククーシュカにわたすものだ。
セイヨウムラサキで染めた薄いプラム色は、あの紅い修道服にもきっと似あうだろうと選んだ。
たまにはヴェールをはずしてこれをつけてくれたら、と少女は思う。
なにしろ彼女は、いつもあの強面の神父の下でこき使われているようだから。
あの神父。
悪魔のような顔の……そう、彼が村にケーレスが現れたと言ってたっけ。
ケーレスを信じているのは、彼女の家では祖母だけだった。帰り支度をしながら、くすりと笑う。
村ではお伽話のような伝承だ、今や信じる者も少ないだろう。
けれど、ククーシュカは神父の言うことは真実だと力説していた。
明日、訊いてみようか。
そんなことを考え、工場の施錠をして回る。
たまに猫などが作業場に入り、染料の入ったバケツを倒していくことがあるのだ。
突然、奥で床が軋む音がした。
驚いて恐る恐る声をかける。
「……誰かいるの?」
返事はない。当然だ、みな帰った後なのだ。
心持ち急ぎ目に戸を閉めて行くと、背後の窓にちらりと影が映った。
やはり誰かいる。
まさかケーレス……?
いいえ猫よ、きっと。
遠くの影は大きく映ることがある。
そう言い聞かせても、降って湧いた怖さにそろそろと足は出口へ向かう。
違ったら違ったでいい、鍵はもう今日はかけないことにした。
どうせたいして盗られるものなんてないのだから。怒られたら、明日親方に謝ろう。
家はすぐそこだ。少女は放たれたように走り出した。
わたしがケーレスを一瞬でも信じたと言ったら、家族は笑うだろう。あの角を曲がればみんな待っている。
ほら、もう我が家の灯りが見える。ここまで来れば『ケーレス』も追って来ない。
最後の角に差しかかり、ふうと息をつく。
とたん、黒い影が目の前を過ぎり、ひっと短い声をあげた。
塀から飛び降りた黒猫が、通りの向こうへ逃げて行く。
「もう……だから猫はきらいよ!」
腹が立ったがそんな自分がおかしくなり、少女はしばらくふくみ笑いをした。
そのため、誰かが目の前に立っているのに遅れて気づいた。月を背にしていたので、逆光で一瞬誰かわからなかった。
「──び、びっくりするじゃない、どうしたの?」
思いがけない人物だった。
ほっとしたのと同時に、相手が手に持つ革切り包丁が目に入る。職人たちが使うものだ。
「ひっ──」
悲鳴は闇に消え、のどをかき切られたのだとわかった。
みぞおちが妙に熱い。
躰を貫かれ、ゆっくりとひざをつく。
祖母が同じ格好で、祭壇に祈りをささげているのが窓から見えた。
明日ククーシュカに、明日親方に──
自身の血で朱く染まってゆく月をながめながら、そんな明日は来ないことを彼女はぼんやりと理解していた。
毛織り物加工のギルドで染色見習いをしている少女は、職人が帰った後の染料や桶の片づけが当番の仕事だった。
「すっかり遅くなったわ」
すべての作業が終わり、糸から染めた自作のスカーフをていねいにたたむ。
明日、ククーシュカにわたすものだ。
セイヨウムラサキで染めた薄いプラム色は、あの紅い修道服にもきっと似あうだろうと選んだ。
たまにはヴェールをはずしてこれをつけてくれたら、と少女は思う。
なにしろ彼女は、いつもあの強面の神父の下でこき使われているようだから。
あの神父。
悪魔のような顔の……そう、彼が村にケーレスが現れたと言ってたっけ。
ケーレスを信じているのは、彼女の家では祖母だけだった。帰り支度をしながら、くすりと笑う。
村ではお伽話のような伝承だ、今や信じる者も少ないだろう。
けれど、ククーシュカは神父の言うことは真実だと力説していた。
明日、訊いてみようか。
そんなことを考え、工場の施錠をして回る。
たまに猫などが作業場に入り、染料の入ったバケツを倒していくことがあるのだ。
突然、奥で床が軋む音がした。
驚いて恐る恐る声をかける。
「……誰かいるの?」
返事はない。当然だ、みな帰った後なのだ。
心持ち急ぎ目に戸を閉めて行くと、背後の窓にちらりと影が映った。
やはり誰かいる。
まさかケーレス……?
いいえ猫よ、きっと。
遠くの影は大きく映ることがある。
そう言い聞かせても、降って湧いた怖さにそろそろと足は出口へ向かう。
違ったら違ったでいい、鍵はもう今日はかけないことにした。
どうせたいして盗られるものなんてないのだから。怒られたら、明日親方に謝ろう。
家はすぐそこだ。少女は放たれたように走り出した。
わたしがケーレスを一瞬でも信じたと言ったら、家族は笑うだろう。あの角を曲がればみんな待っている。
ほら、もう我が家の灯りが見える。ここまで来れば『ケーレス』も追って来ない。
最後の角に差しかかり、ふうと息をつく。
とたん、黒い影が目の前を過ぎり、ひっと短い声をあげた。
塀から飛び降りた黒猫が、通りの向こうへ逃げて行く。
「もう……だから猫はきらいよ!」
腹が立ったがそんな自分がおかしくなり、少女はしばらくふくみ笑いをした。
そのため、誰かが目の前に立っているのに遅れて気づいた。月を背にしていたので、逆光で一瞬誰かわからなかった。
「──び、びっくりするじゃない、どうしたの?」
思いがけない人物だった。
ほっとしたのと同時に、相手が手に持つ革切り包丁が目に入る。職人たちが使うものだ。
「ひっ──」
悲鳴は闇に消え、のどをかき切られたのだとわかった。
みぞおちが妙に熱い。
躰を貫かれ、ゆっくりとひざをつく。
祖母が同じ格好で、祭壇に祈りをささげているのが窓から見えた。
明日ククーシュカに、明日親方に──
自身の血で朱く染まってゆく月をながめながら、そんな明日は来ないことを彼女はぼんやりと理解していた。