修道女のお菓子 〜シスターエルフのレシピと事件簿
自室にもどることもできず、ククーシュカは教会のポーチでぼんやりとたたずんでいた。
会った初めから怖かったアルジェントだったが、あんなに怒った顔は見たことがなかった。
『ジノ』と、ずっと名を呼んでいた。
(誰なんだろう)
やがて、夜が明けてきた。
食事の準備をしようとククーシュカが中に入ると、アルジェントは起きて僧服に着がえているところだった。
「トリアー神父、もう大丈夫なんですか?」
「問題ない」
「お食事は……」
「よい、これから出かける」
そう言うと、マントを羽織り出て行ってしまった。
イスマイルの言った通りすぐに快復したようだが、ククーシュカは悄然と立ち尽くす。
(元気になられたのならいいけど、でも……顔もあわせてもらえなかった)
自分はいつも、アルジェントを怒らせているような気がする。
きらわれたのかもしれないと思うと悲しかった。
森では誰からも疎まれていたのに、なぜここではそれがつらいのだろう。
その日結局アルジェントは帰りも遅く、そんな日が数日続いた。
「ククーシュカ、最近元気ないね」
いつもの試食会でヨルンドが心配そうにのぞき込み、クロエも半目でため息をつく。
「どーせあの性悪神父に意地悪されたんでしょ」
「そんなことないです」
話を逸らすようにお茶を淹れるが、注ぐそばからカップにどぼどぼとあふれさせ、心ここにあらずといった具合だ。
「ほんとにあいつのせいなの?」
「違いますよ、トリアー神父はいいひとです」
力なく笑うククーシュカを見て、胡乱に顔をあわせるクロエとヨルンド。
「あの男こないだ、市で怪しい聖杯売ってたけどね」
「ぼくが見たとき、聖書を鍋敷きに使ってたよ」
「サイテーね」
その通りなのでフォローできない。
しかし、ククーシュカは努めて冷静にお茶を淹れ直した。
「いいえ、きっとわたしが悪いんです」
(これはゆゆしき問題だ)
ヨルンドは、深刻な顔で帰路に向かっていた。
ククーシュカが落ち込んでいるのだ、なんとかしてあげたい。
ヨルンドは、ククーシュカが大好きだった。
父親が熱を上げているのが、クロエでなくククーシュカだったら。
そんな想像をしたこともあったが、自分はククーシュカに母親になってほしいわけではなかった。
とにかく、その彼女がしょんぼりしている。
本当に彼に意地悪をされたのだろうか。
だがよく考えてみると、自分のまわりの少年たちは好きな女の子にこそ、意地悪をする。
(ぼくはそんな大人気ないことしないけど、トリアー神父がククーシュカを好きだとしたら?)
そんなことをぐるぐると考えていると、道の向こうから黒服の男がやって来た。
(あれは神父とよくいっしょにいる……)
「こんばんは!」
ヨルンドは元気にあいさつをしたが、警吏は会釈をしただけで通り過ぎようとした。
「ちょっとちょっと!」
村人からこんなに華麗にスルーされたことは初めてだったので、ヨルンドはあわてててイスマイルを呼び止める。
村長だろうが荘園主の息子だろうが、この男にとってはどうでもいいことらしい。
「わたしに何か」
イスマイルはヨルンドをそっけなく一瞥した。
とても子どもへの対応とは思えないところは、アルジェントと似ている。
ふだんは物怖じしないヨルンドだったが、男の圧に気後れし、すぐには言葉が出てこなかった。
「ええと、えーとね……」
まごまごしているうちに、イスマイルはすっと踵を返す。
「用がないならこれで。わたしは仕事があるので」
警吏は今、同職組合と交代で村の見回りを続けているという。
「あっ待って待って、トリアー神父のことなんだよ!」
「アルさまの……?」
不穏な顔がふり返った。
つまらないことならただじゃおかないといった表情だ。
ヨルンドは、いっしょうけんめい自分の言葉でククーシュカの状況を説明した。
だが、返ってきたのは的外れな答えだった。
「理解しました。つまり、あの修道女がアルさまを困らせているのですね」
「逆だよ! ぼくの話聞いてた?」
「はあ、おおかた、彼女がアルさまに叱られるようなことをしでかしたのでしょう。上司のありがたい指導を、いじめと受け取るとは愚かな証拠です」
面倒そうにため息をつくイスマイルに抗議したいのを抑え、ヨルンドは努めて冷静に話した。
「違うよ。ぼくは、トリアー神父がククーシュカに冷たく当たるのをやめてほしいだけなんだ。泣かすなんてサイテーだ」
「彼女が泣いていたのですか」
「ううん、でも泣きそうな顔してた」
相手は思案していたが、意見される前にヨルンドは続けた。
「好きだから相手をいじめるなんて間違ってるよ」
「アルさまが、ククーシュカに特別な好意を抱いていると?」
感情が捉えにくい目にも、さすがに驚きが滲んでいる。
これで少しは通じただろうか。
「かっこつけてるけど見え見えなんだ。とにかくそういうことだから、トリアー神父に伝えてよね」
しつこく念を押し、ヨルンドは帰って行った。
そんな少年を目で追いながら、イスマイルはひとりつぶやく。
「我がきみをたぶらかすとは、許せませんねククーシュカ」
イスマイルが初めてアルジェントと出会ったのは、まだ子どもの頃だった。
この先死ぬまで、年の変わらぬこの少年を支えるよう言われた。
アルジェントにではない、親やまわりの大人たちからだ。
その使命を与えられたとき、誇らしかった。
初めは。
一度、町のならず者たちにアルジェントが恐喝されたことがあった。
だがイスマイルが身体をはってかばったので、彼は事なきを得た。
大人たちは胸をなで下ろし、悪徒たちに罰を与え町から追放した。
べそをかくアルジェントをみんながなぐさめたが、イスマイルに言葉をかける者はいなかった。
立ち向かった際切れた口もとをぬぐい、少年のイスマイルは暮れなずむ空にずっとたたずむ。
夕暮れとヨルンドの後ろ姿に、そんなことを思い出しただけだ。
「面倒な任務ですよ、まったく」
(ヨルンドたちにまで心配をかけるなんて)
台所にもどっても、ククーシュカにはなんのアイディアも浮かんで来なかった。
今、祝祭以外のことで悩んでいるひまはないのに、思い出すのは、アルジェントの怒った顔ばかりだ。
今日も彼はまだ帰って来ない。
ここ数日、避けられているようだった。
教会を出て、村をぼんやりと歩いてみる。
自分がレヴァンダに来て、よくないことが起きているような気がした。
トリーネがあんなことになったのも。
何もかも放り出して、どこかへ行ってしまおうか。
そんな考えが一瞬過ぎったが、アルジェントはもちろん、村のみんなと二度と会えないと思うとつらかった。
(ヨルンド、クロエ、オロスコさん、ルカ師匠……)
気づくと、料理教室のある家屋まで来ていた。
ここで、アップルローズのタルトをトリーネたちと教わった時間が夢のようだ。
今はもう何も作れる気がしない。
(お菓子って、悲しいと作れないんだ)
灯りの消えた建物を見上げていると、ふいに後ろから声をかけられる。
「ククーシュカか?」
「ルカ師匠……」
もう誰もいないと思っていたので驚いた。
「教会へ行ったのだが、入れ違いだったな。ちょうどよかった、お前に用があったのだ」
ルカがククーシュカに小さめの麻袋をわたす。
中を開けると、一枚のスカーフが入っていた。
「……これは?」
「トリーネからだ。お前への贈りものだったそうだ。遺族からあずかっていた」
ルカは低くつぶやく。
プラム色の手染めのスカーフ。
染色の仕事をしていた彼女が、ククーシュカを思って作ってくれたのだをわかった。
知らないうちに、ぽたぽたと涙が袋に落ちていた。
「師匠……」
「使ってやれ。トリーネも喜ぶだろう」
ルカにぎゅっと抱きしめられ、ククーシュカの目から堰を切ったように涙があふれた。
泣いたのは初めてだった。
ずっと心を殺して生きて来たのは、そのほうが楽だったから。
悲しい、つらい。
こんな感情は鞭打たれるより痛くて苦しい。
それでも思いきり泣くと、乾いた砂に雨が染み込むように躰は湿度を増していった。
会った初めから怖かったアルジェントだったが、あんなに怒った顔は見たことがなかった。
『ジノ』と、ずっと名を呼んでいた。
(誰なんだろう)
やがて、夜が明けてきた。
食事の準備をしようとククーシュカが中に入ると、アルジェントは起きて僧服に着がえているところだった。
「トリアー神父、もう大丈夫なんですか?」
「問題ない」
「お食事は……」
「よい、これから出かける」
そう言うと、マントを羽織り出て行ってしまった。
イスマイルの言った通りすぐに快復したようだが、ククーシュカは悄然と立ち尽くす。
(元気になられたのならいいけど、でも……顔もあわせてもらえなかった)
自分はいつも、アルジェントを怒らせているような気がする。
きらわれたのかもしれないと思うと悲しかった。
森では誰からも疎まれていたのに、なぜここではそれがつらいのだろう。
その日結局アルジェントは帰りも遅く、そんな日が数日続いた。
「ククーシュカ、最近元気ないね」
いつもの試食会でヨルンドが心配そうにのぞき込み、クロエも半目でため息をつく。
「どーせあの性悪神父に意地悪されたんでしょ」
「そんなことないです」
話を逸らすようにお茶を淹れるが、注ぐそばからカップにどぼどぼとあふれさせ、心ここにあらずといった具合だ。
「ほんとにあいつのせいなの?」
「違いますよ、トリアー神父はいいひとです」
力なく笑うククーシュカを見て、胡乱に顔をあわせるクロエとヨルンド。
「あの男こないだ、市で怪しい聖杯売ってたけどね」
「ぼくが見たとき、聖書を鍋敷きに使ってたよ」
「サイテーね」
その通りなのでフォローできない。
しかし、ククーシュカは努めて冷静にお茶を淹れ直した。
「いいえ、きっとわたしが悪いんです」
(これはゆゆしき問題だ)
ヨルンドは、深刻な顔で帰路に向かっていた。
ククーシュカが落ち込んでいるのだ、なんとかしてあげたい。
ヨルンドは、ククーシュカが大好きだった。
父親が熱を上げているのが、クロエでなくククーシュカだったら。
そんな想像をしたこともあったが、自分はククーシュカに母親になってほしいわけではなかった。
とにかく、その彼女がしょんぼりしている。
本当に彼に意地悪をされたのだろうか。
だがよく考えてみると、自分のまわりの少年たちは好きな女の子にこそ、意地悪をする。
(ぼくはそんな大人気ないことしないけど、トリアー神父がククーシュカを好きだとしたら?)
そんなことをぐるぐると考えていると、道の向こうから黒服の男がやって来た。
(あれは神父とよくいっしょにいる……)
「こんばんは!」
ヨルンドは元気にあいさつをしたが、警吏は会釈をしただけで通り過ぎようとした。
「ちょっとちょっと!」
村人からこんなに華麗にスルーされたことは初めてだったので、ヨルンドはあわてててイスマイルを呼び止める。
村長だろうが荘園主の息子だろうが、この男にとってはどうでもいいことらしい。
「わたしに何か」
イスマイルはヨルンドをそっけなく一瞥した。
とても子どもへの対応とは思えないところは、アルジェントと似ている。
ふだんは物怖じしないヨルンドだったが、男の圧に気後れし、すぐには言葉が出てこなかった。
「ええと、えーとね……」
まごまごしているうちに、イスマイルはすっと踵を返す。
「用がないならこれで。わたしは仕事があるので」
警吏は今、同職組合と交代で村の見回りを続けているという。
「あっ待って待って、トリアー神父のことなんだよ!」
「アルさまの……?」
不穏な顔がふり返った。
つまらないことならただじゃおかないといった表情だ。
ヨルンドは、いっしょうけんめい自分の言葉でククーシュカの状況を説明した。
だが、返ってきたのは的外れな答えだった。
「理解しました。つまり、あの修道女がアルさまを困らせているのですね」
「逆だよ! ぼくの話聞いてた?」
「はあ、おおかた、彼女がアルさまに叱られるようなことをしでかしたのでしょう。上司のありがたい指導を、いじめと受け取るとは愚かな証拠です」
面倒そうにため息をつくイスマイルに抗議したいのを抑え、ヨルンドは努めて冷静に話した。
「違うよ。ぼくは、トリアー神父がククーシュカに冷たく当たるのをやめてほしいだけなんだ。泣かすなんてサイテーだ」
「彼女が泣いていたのですか」
「ううん、でも泣きそうな顔してた」
相手は思案していたが、意見される前にヨルンドは続けた。
「好きだから相手をいじめるなんて間違ってるよ」
「アルさまが、ククーシュカに特別な好意を抱いていると?」
感情が捉えにくい目にも、さすがに驚きが滲んでいる。
これで少しは通じただろうか。
「かっこつけてるけど見え見えなんだ。とにかくそういうことだから、トリアー神父に伝えてよね」
しつこく念を押し、ヨルンドは帰って行った。
そんな少年を目で追いながら、イスマイルはひとりつぶやく。
「我がきみをたぶらかすとは、許せませんねククーシュカ」
イスマイルが初めてアルジェントと出会ったのは、まだ子どもの頃だった。
この先死ぬまで、年の変わらぬこの少年を支えるよう言われた。
アルジェントにではない、親やまわりの大人たちからだ。
その使命を与えられたとき、誇らしかった。
初めは。
一度、町のならず者たちにアルジェントが恐喝されたことがあった。
だがイスマイルが身体をはってかばったので、彼は事なきを得た。
大人たちは胸をなで下ろし、悪徒たちに罰を与え町から追放した。
べそをかくアルジェントをみんながなぐさめたが、イスマイルに言葉をかける者はいなかった。
立ち向かった際切れた口もとをぬぐい、少年のイスマイルは暮れなずむ空にずっとたたずむ。
夕暮れとヨルンドの後ろ姿に、そんなことを思い出しただけだ。
「面倒な任務ですよ、まったく」
(ヨルンドたちにまで心配をかけるなんて)
台所にもどっても、ククーシュカにはなんのアイディアも浮かんで来なかった。
今、祝祭以外のことで悩んでいるひまはないのに、思い出すのは、アルジェントの怒った顔ばかりだ。
今日も彼はまだ帰って来ない。
ここ数日、避けられているようだった。
教会を出て、村をぼんやりと歩いてみる。
自分がレヴァンダに来て、よくないことが起きているような気がした。
トリーネがあんなことになったのも。
何もかも放り出して、どこかへ行ってしまおうか。
そんな考えが一瞬過ぎったが、アルジェントはもちろん、村のみんなと二度と会えないと思うとつらかった。
(ヨルンド、クロエ、オロスコさん、ルカ師匠……)
気づくと、料理教室のある家屋まで来ていた。
ここで、アップルローズのタルトをトリーネたちと教わった時間が夢のようだ。
今はもう何も作れる気がしない。
(お菓子って、悲しいと作れないんだ)
灯りの消えた建物を見上げていると、ふいに後ろから声をかけられる。
「ククーシュカか?」
「ルカ師匠……」
もう誰もいないと思っていたので驚いた。
「教会へ行ったのだが、入れ違いだったな。ちょうどよかった、お前に用があったのだ」
ルカがククーシュカに小さめの麻袋をわたす。
中を開けると、一枚のスカーフが入っていた。
「……これは?」
「トリーネからだ。お前への贈りものだったそうだ。遺族からあずかっていた」
ルカは低くつぶやく。
プラム色の手染めのスカーフ。
染色の仕事をしていた彼女が、ククーシュカを思って作ってくれたのだをわかった。
知らないうちに、ぽたぽたと涙が袋に落ちていた。
「師匠……」
「使ってやれ。トリーネも喜ぶだろう」
ルカにぎゅっと抱きしめられ、ククーシュカの目から堰を切ったように涙があふれた。
泣いたのは初めてだった。
ずっと心を殺して生きて来たのは、そのほうが楽だったから。
悲しい、つらい。
こんな感情は鞭打たれるより痛くて苦しい。
それでも思いきり泣くと、乾いた砂に雨が染み込むように躰は湿度を増していった。