修道女のお菓子 〜シスターエルフのレシピと事件簿
「まあいい、夕食にするか」
そう言われ、まだ何も準備をしていないことに気づく。
台所は菓子の試作で雑然としている。
「すみません。今、すぐに支度を」
「よい。そうだな、たまにはわたしの料理も食べてみないか。なかなかのものだぞ」
「トリアー神父の?」
アルジェントは裏庭へ行くと、支柱に布をわたし、遊牧民のような簡易的なテントをはった。
手慣れた仕草で、積んだ石の中心に炭をおき火を起こす。
鍋にバターを溶かすとミルクを少し注ぎ、削いだチーズを投入した。
串に刺した肉を焼き、スープに浸して食べる。
「そのまま食ってもいいし、後はじゃがいもでもなんでも、好きなものを入れていい」
あの神経質な彼が、どかりとあぐらをかいて地べたに直にすわっている。
ぶどう酒を注いだマグをあおり、いつもより楽しそうだ。
「うまいか?」
「はい」
熱そうに串を口にするククーシュカに「そうだろそうだろ」と、自信ありげにすすめる。
「お前はいつも、こう言う気持ちで食事を作っていたのだな。食べてもらえるというのはうれしいことだ」
そして炭を枝でひっくり返すと、熾火に視線を固定したままおもむろにつぶやいた。
「お前は、もといた森に帰りたいか?」
そんなことを突然訊かれるとは思ってなかったのでククーシュカは戸惑ったが、判然と首をふった。
「いいえ、そんなことはまったく思っていません」
「しかし、この間ひとりであの森へ出かけていたようだが……」
「見ていらっしゃったのですか?」
「たまたまだ、どこへ行くのだろうとな」
決まり悪そうに、アルジェントは串から肉を噛んだ。
照れているように赤く見えるのは、きっと炎のせいだろう。
「あれはなつかしくて行ったのではないんです。ただ思い出すために」
「しかし、人間を恨んではいないのか。お前の棲む森を襲ったのだぞ」
問われる言葉に悼みを感じ、ククーシュカはスープの入ったあたたかな椀を両手で包む。
「わたしは確かに戦いで森を追われました。でも、ここへ来てよかったと思います」
「つらい目に遭ったのだな」
険しい目で見つめられ、ククーシュカは思わず首すじを押さえた。
ヴェールをはずし司祭館へ運ばれたとき、おそらく見えたのだろう。
鞭打たれた痕は、首から背につながっている。
「お前が薬草に長けているのは、自身の傷を治していたからか」
「……はい。わたしは母と人間の男性との間に生まれました。純血でない者は忌み子と呼ばれ、身分を与えられません」
炎がパチパチと爆ぜ、小さな火の粉が飛んだ。
夜風は、十数年前の思い出を運んで来る。
その頃、まだククーシュカは母親であるキルシュとふたりで暮らしていた。
母は父親の素性を周囲に明らかにしなかったが、エルフと人間社会のルールは違うためか、ここでは誰も詮索する者はいなかった。
ククーシュカにしても、父親がいないことになんの疑問も持たず暮らしていた。
だからときおり村から訪ねて来る若い男が父親であるとは、それまで知るよしもなかった。
彼はしばしば三人で遠くで暮らそうと言ってきたが、彼女はかたくなにうなずかなかった。
キルシュは巫女で、森を護るお役目があった。
生まれ持った霊力で、死者の言葉やお告げを聞くものだ。
近年情勢は、森と村、異族同士の闘争が勃発しており、神託が必要な時期だった。
しかし彼女はあるときから、言葉を授かることができなくなっていた。能力が消えてしまったのだ。
未来が見えなくなった巫女に、エルフたちは焦った。
あわてて新天地を目指し荷作りをする者、応戦の準備をする者と、次第に森の民はばらばらになっていった。
何度も話しあいが行われ、キルシュはそのたび古代の遺跡の残る聖域で予言の声を聞こうと試したが、何も降りては来なかった。
母親が深くため息をついていたのを憶えている。
とはいえ大人たちに流れるそんな緊迫した雰囲気など、まだ子どもであるククーシュカにはあまり関係がなかった。
本来聖域は巫女以外立ち入ることを許されない。
だがオークや蔦に覆われた崩れた遺跡は、ククーシュカにとっては絶好の遊び場だった。
ある日、ククーシュカがオークの木に宿ったヤドリギの下に立ったとき、不思議な感覚に襲われた。
何かに躰の操作を一瞬奪われたような、何かが乗り移ったようなそんな現象。
頭に降りてきた言葉は、そのまますっと声になった。
「エルフぞくははいぼくする」
なんのことだろう?
エルフぞくははいぼく、エルフぞくははいぼく。
家へ帰りつき母にそのことを伝えると、キルシュはまっ青になってククーシュカの肩をつかんだ。
「決して人前で言ってはだめよ」
ククーシュカは言われた通り、誰にも言わなかった。
キルシュはすぐに『話しあい』に出かけた。
ククーシュカがひとりで留守番をしていると、家にあの男がやって来た。
「ママは今いないよ」
ククーシュカは彼が好きでもきらいでもなかったが、母親が彼に魅かれる理由がわからなかった。
男は、森のくわしい地図がないかククーシュカに訊いてきた。
「そんなものないよ。地図なんてなくたって、みんな迷わないもの」
「じゃあ、ククーシュカが地図を描いてくれるかい?」
「なあぜ?」
「ママのところに行きたいんだ。ママにプレゼントがあるんだよ」
ママが喜ぶのなら、とククーシュカは辿々しい図形ながらも地図を描いた。
森は毎日、すみからすみまで遊び尽くしている。地図くらいお手のものだ。
それに男は来るたびいつも手みやげをくれるので、母にも何かいいものを持って行ってくれるのだろうと期待した。
しかし、ククーシュカが自分がとんでもない過ちを犯したのだと気づいたときには遅かった。
その夜、森の民たちは鳴り響くブルーベルの花の警告音で目を覚ました。
「人間たちだ! 宝物殿がやられたぞ!」
突如とした夜襲に、エルフたちはパニックとなった。
灯りもない真夜中の森の中、なぜ襲撃者たちは正確に狙いを定めて来ることができたのか。
それは、ククーシュカが描いた地図の導きにほかならない。
幸い敵の数が少なかったため、すぐに撃退することができた。しかし死者や怪我人が出なかったわけではない。
男の存在から、すぐにキルシュが禁忌を犯し、異種族と通じたことが明るみに出た。
同時に、彼がキルシュを利用するため近づいたことも。
森を護る立場のはずが逆に危険に晒したキルシュを、森の民は許さなかった。
捕まった男は見せしめのためエルフ族に殺され、キルシュは狂ったように慟哭した。
騙されたというのに、いつまでも男のことを忘れられない母をククーシュカは理解できなかった。
キルシュは自分の霊力が消えた理由を、人間の男と交わった罰だと自責の念に囚われる反面、ククーシュカを憎むようになった。
「お前が地図さえわたさなければこんなことには」
まるですべての厄災の根元は娘にあるように。
そんな相反する感情が渦巻くようになり、彼女の精神は次第に崩壊していった。
「ママ、どこへ行くの?」
「お祈りに行くのよ。みんなが幸せになるようにね」
それが、母と交わした最後の言葉だった。
キルシュは聖域のオークで、首を吊って亡くなっていた。
そうして、孤児となったククーシュカは、族長の屋敷で下女として働くことになったのだ。
「──結局、あの日聞こえた声は本当のことだったんです」
『エルフぞくははいぼくする』
確かに今回の紛争で、人間とエルフの戦いは前者が勝利を収めた。
「でも、わたしには何もできなかった」
ククーシュカは冷めてしまった碗の中を見つめた。
「子どもだったのだ、仕方あるまい。しかし話を聞いてわかったぞ。子を産めば能力は消える。お前に霊が視えるのは、母親から受け継いだ力なのだな」
「こんな力あったって……」
「役に立ったではないか。お前はダンターを解放した」
それでも顔色の晴れないククーシュカの碗に、アルジェントはおかわりをよそう。
「母親は愛してはくれなかったのか」
「もうわかりません……」
愛されていなかったわけではない、ケーキだって焼いてくれた。
「何も与えてもらわなかった?」
「いいえ、いつもおいしいものを食べられるようにと、くるみの木で作ったスプーンを……」
だが少なくとも、アルジェントはそんなスプーンをククーシュカが持っているのを見たことがなかった。
「お前は母親をどう思う」
「母を?」
愛する者に裏切られ、自ら死を選んだ母。残された子どもを護ることもせずに。
「考えたことなど……」
「考えろ」
なぜ彼は、そんなことを強要してくるのだろう。
たった今まで、楽しい時間だったはず。
奪われた棲み家、逝ってしまった母。
悲しい思い出はたくさんだ。
なのに彼は責めるように、秘密をはぐように問いただしてくる。
「母親の過去を疎ましく思っているのはお前ではないのか」
「そんな、まさか」
「本当は恨んでいるのではないのか」
「いいえ」
「お前を虐げた森の民は憎くないのか」
「いいえ」
「自分を取りまくすべてを呪ったことはないのか」
「いいえ!」
「ならばなぜお前は生きている? 怒りを吐き出せ。自分の感情をに遠慮をするな。もっと自由でいいんだ、食い物も心も!」
怒鳴られた意味がわからなかった。
躰をこじ開けられた気がして、胸がひりひりする。
だが恐怖はなく、ククーシュカは惚けたようにアルジェントを見上げた。
「い、怒りを」
嗚咽が込み上げてくる。
「表に出していいのは、強い者だけです……」
「お前は過酷な運命を生き抜いた。わたしよりよほど強い。もっと誇りを持て」
アルジェントの言葉に、顔がゆがみ、涙がこぼれた。
母さま、仲間たち、リリウムさま。
どうしてひとりにしたの、どうして利用したの。
どうしてわたしを、
「大切にしてくれなかったの……」
「悲しい話だ」
アルジェントのまなざしが痛ましげに光る。
だがすべてをひと言に集約され、ククーシュカはかっとなった。
アルジェントのいつもの平板な口調が腹立たしかった。
つらかったのに。痛かったのに。
「神父さまなんて何も知らないくせに──!」
「!」
一瞬、自分の躰から何かが爆ぜたような気がした。
それは熱を持った血が圧縮され、外に弾ける感覚。
アルジェントのほおを伝う朱いすじに、思わず躊躇する。
(わたし、今何を……?)
だがわけがわからず、代わりに出てきたのは幼稚な悪態だった。
「き……きらい、みんなきらいです!」
涙が濁流のようにあふれ出す。
「わたしもか」
「意地悪なトリアー神父もです!」
めちゃくちゃだとわかっているのに、号泣が止まらない。
「みんなきらい……!」
「わかった、すまなかった、もういい」
アルジェントはあやすように、大きな手のひらでククーシュカの涙をぬぐう。
ふいに引きよせられ、小さな躰は僧服にすっぽりと収まった。
驚いたククーシュカは涙が止まり、同時に赤面する。
ふるえる肩をやさしく包まれ、ククーシュカは子どものように安心して目を閉じた。
そう言われ、まだ何も準備をしていないことに気づく。
台所は菓子の試作で雑然としている。
「すみません。今、すぐに支度を」
「よい。そうだな、たまにはわたしの料理も食べてみないか。なかなかのものだぞ」
「トリアー神父の?」
アルジェントは裏庭へ行くと、支柱に布をわたし、遊牧民のような簡易的なテントをはった。
手慣れた仕草で、積んだ石の中心に炭をおき火を起こす。
鍋にバターを溶かすとミルクを少し注ぎ、削いだチーズを投入した。
串に刺した肉を焼き、スープに浸して食べる。
「そのまま食ってもいいし、後はじゃがいもでもなんでも、好きなものを入れていい」
あの神経質な彼が、どかりとあぐらをかいて地べたに直にすわっている。
ぶどう酒を注いだマグをあおり、いつもより楽しそうだ。
「うまいか?」
「はい」
熱そうに串を口にするククーシュカに「そうだろそうだろ」と、自信ありげにすすめる。
「お前はいつも、こう言う気持ちで食事を作っていたのだな。食べてもらえるというのはうれしいことだ」
そして炭を枝でひっくり返すと、熾火に視線を固定したままおもむろにつぶやいた。
「お前は、もといた森に帰りたいか?」
そんなことを突然訊かれるとは思ってなかったのでククーシュカは戸惑ったが、判然と首をふった。
「いいえ、そんなことはまったく思っていません」
「しかし、この間ひとりであの森へ出かけていたようだが……」
「見ていらっしゃったのですか?」
「たまたまだ、どこへ行くのだろうとな」
決まり悪そうに、アルジェントは串から肉を噛んだ。
照れているように赤く見えるのは、きっと炎のせいだろう。
「あれはなつかしくて行ったのではないんです。ただ思い出すために」
「しかし、人間を恨んではいないのか。お前の棲む森を襲ったのだぞ」
問われる言葉に悼みを感じ、ククーシュカはスープの入ったあたたかな椀を両手で包む。
「わたしは確かに戦いで森を追われました。でも、ここへ来てよかったと思います」
「つらい目に遭ったのだな」
険しい目で見つめられ、ククーシュカは思わず首すじを押さえた。
ヴェールをはずし司祭館へ運ばれたとき、おそらく見えたのだろう。
鞭打たれた痕は、首から背につながっている。
「お前が薬草に長けているのは、自身の傷を治していたからか」
「……はい。わたしは母と人間の男性との間に生まれました。純血でない者は忌み子と呼ばれ、身分を与えられません」
炎がパチパチと爆ぜ、小さな火の粉が飛んだ。
夜風は、十数年前の思い出を運んで来る。
その頃、まだククーシュカは母親であるキルシュとふたりで暮らしていた。
母は父親の素性を周囲に明らかにしなかったが、エルフと人間社会のルールは違うためか、ここでは誰も詮索する者はいなかった。
ククーシュカにしても、父親がいないことになんの疑問も持たず暮らしていた。
だからときおり村から訪ねて来る若い男が父親であるとは、それまで知るよしもなかった。
彼はしばしば三人で遠くで暮らそうと言ってきたが、彼女はかたくなにうなずかなかった。
キルシュは巫女で、森を護るお役目があった。
生まれ持った霊力で、死者の言葉やお告げを聞くものだ。
近年情勢は、森と村、異族同士の闘争が勃発しており、神託が必要な時期だった。
しかし彼女はあるときから、言葉を授かることができなくなっていた。能力が消えてしまったのだ。
未来が見えなくなった巫女に、エルフたちは焦った。
あわてて新天地を目指し荷作りをする者、応戦の準備をする者と、次第に森の民はばらばらになっていった。
何度も話しあいが行われ、キルシュはそのたび古代の遺跡の残る聖域で予言の声を聞こうと試したが、何も降りては来なかった。
母親が深くため息をついていたのを憶えている。
とはいえ大人たちに流れるそんな緊迫した雰囲気など、まだ子どもであるククーシュカにはあまり関係がなかった。
本来聖域は巫女以外立ち入ることを許されない。
だがオークや蔦に覆われた崩れた遺跡は、ククーシュカにとっては絶好の遊び場だった。
ある日、ククーシュカがオークの木に宿ったヤドリギの下に立ったとき、不思議な感覚に襲われた。
何かに躰の操作を一瞬奪われたような、何かが乗り移ったようなそんな現象。
頭に降りてきた言葉は、そのまますっと声になった。
「エルフぞくははいぼくする」
なんのことだろう?
エルフぞくははいぼく、エルフぞくははいぼく。
家へ帰りつき母にそのことを伝えると、キルシュはまっ青になってククーシュカの肩をつかんだ。
「決して人前で言ってはだめよ」
ククーシュカは言われた通り、誰にも言わなかった。
キルシュはすぐに『話しあい』に出かけた。
ククーシュカがひとりで留守番をしていると、家にあの男がやって来た。
「ママは今いないよ」
ククーシュカは彼が好きでもきらいでもなかったが、母親が彼に魅かれる理由がわからなかった。
男は、森のくわしい地図がないかククーシュカに訊いてきた。
「そんなものないよ。地図なんてなくたって、みんな迷わないもの」
「じゃあ、ククーシュカが地図を描いてくれるかい?」
「なあぜ?」
「ママのところに行きたいんだ。ママにプレゼントがあるんだよ」
ママが喜ぶのなら、とククーシュカは辿々しい図形ながらも地図を描いた。
森は毎日、すみからすみまで遊び尽くしている。地図くらいお手のものだ。
それに男は来るたびいつも手みやげをくれるので、母にも何かいいものを持って行ってくれるのだろうと期待した。
しかし、ククーシュカが自分がとんでもない過ちを犯したのだと気づいたときには遅かった。
その夜、森の民たちは鳴り響くブルーベルの花の警告音で目を覚ました。
「人間たちだ! 宝物殿がやられたぞ!」
突如とした夜襲に、エルフたちはパニックとなった。
灯りもない真夜中の森の中、なぜ襲撃者たちは正確に狙いを定めて来ることができたのか。
それは、ククーシュカが描いた地図の導きにほかならない。
幸い敵の数が少なかったため、すぐに撃退することができた。しかし死者や怪我人が出なかったわけではない。
男の存在から、すぐにキルシュが禁忌を犯し、異種族と通じたことが明るみに出た。
同時に、彼がキルシュを利用するため近づいたことも。
森を護る立場のはずが逆に危険に晒したキルシュを、森の民は許さなかった。
捕まった男は見せしめのためエルフ族に殺され、キルシュは狂ったように慟哭した。
騙されたというのに、いつまでも男のことを忘れられない母をククーシュカは理解できなかった。
キルシュは自分の霊力が消えた理由を、人間の男と交わった罰だと自責の念に囚われる反面、ククーシュカを憎むようになった。
「お前が地図さえわたさなければこんなことには」
まるですべての厄災の根元は娘にあるように。
そんな相反する感情が渦巻くようになり、彼女の精神は次第に崩壊していった。
「ママ、どこへ行くの?」
「お祈りに行くのよ。みんなが幸せになるようにね」
それが、母と交わした最後の言葉だった。
キルシュは聖域のオークで、首を吊って亡くなっていた。
そうして、孤児となったククーシュカは、族長の屋敷で下女として働くことになったのだ。
「──結局、あの日聞こえた声は本当のことだったんです」
『エルフぞくははいぼくする』
確かに今回の紛争で、人間とエルフの戦いは前者が勝利を収めた。
「でも、わたしには何もできなかった」
ククーシュカは冷めてしまった碗の中を見つめた。
「子どもだったのだ、仕方あるまい。しかし話を聞いてわかったぞ。子を産めば能力は消える。お前に霊が視えるのは、母親から受け継いだ力なのだな」
「こんな力あったって……」
「役に立ったではないか。お前はダンターを解放した」
それでも顔色の晴れないククーシュカの碗に、アルジェントはおかわりをよそう。
「母親は愛してはくれなかったのか」
「もうわかりません……」
愛されていなかったわけではない、ケーキだって焼いてくれた。
「何も与えてもらわなかった?」
「いいえ、いつもおいしいものを食べられるようにと、くるみの木で作ったスプーンを……」
だが少なくとも、アルジェントはそんなスプーンをククーシュカが持っているのを見たことがなかった。
「お前は母親をどう思う」
「母を?」
愛する者に裏切られ、自ら死を選んだ母。残された子どもを護ることもせずに。
「考えたことなど……」
「考えろ」
なぜ彼は、そんなことを強要してくるのだろう。
たった今まで、楽しい時間だったはず。
奪われた棲み家、逝ってしまった母。
悲しい思い出はたくさんだ。
なのに彼は責めるように、秘密をはぐように問いただしてくる。
「母親の過去を疎ましく思っているのはお前ではないのか」
「そんな、まさか」
「本当は恨んでいるのではないのか」
「いいえ」
「お前を虐げた森の民は憎くないのか」
「いいえ」
「自分を取りまくすべてを呪ったことはないのか」
「いいえ!」
「ならばなぜお前は生きている? 怒りを吐き出せ。自分の感情をに遠慮をするな。もっと自由でいいんだ、食い物も心も!」
怒鳴られた意味がわからなかった。
躰をこじ開けられた気がして、胸がひりひりする。
だが恐怖はなく、ククーシュカは惚けたようにアルジェントを見上げた。
「い、怒りを」
嗚咽が込み上げてくる。
「表に出していいのは、強い者だけです……」
「お前は過酷な運命を生き抜いた。わたしよりよほど強い。もっと誇りを持て」
アルジェントの言葉に、顔がゆがみ、涙がこぼれた。
母さま、仲間たち、リリウムさま。
どうしてひとりにしたの、どうして利用したの。
どうしてわたしを、
「大切にしてくれなかったの……」
「悲しい話だ」
アルジェントのまなざしが痛ましげに光る。
だがすべてをひと言に集約され、ククーシュカはかっとなった。
アルジェントのいつもの平板な口調が腹立たしかった。
つらかったのに。痛かったのに。
「神父さまなんて何も知らないくせに──!」
「!」
一瞬、自分の躰から何かが爆ぜたような気がした。
それは熱を持った血が圧縮され、外に弾ける感覚。
アルジェントのほおを伝う朱いすじに、思わず躊躇する。
(わたし、今何を……?)
だがわけがわからず、代わりに出てきたのは幼稚な悪態だった。
「き……きらい、みんなきらいです!」
涙が濁流のようにあふれ出す。
「わたしもか」
「意地悪なトリアー神父もです!」
めちゃくちゃだとわかっているのに、号泣が止まらない。
「みんなきらい……!」
「わかった、すまなかった、もういい」
アルジェントはあやすように、大きな手のひらでククーシュカの涙をぬぐう。
ふいに引きよせられ、小さな躰は僧服にすっぽりと収まった。
驚いたククーシュカは涙が止まり、同時に赤面する。
ふるえる肩をやさしく包まれ、ククーシュカは子どものように安心して目を閉じた。