修道女のお菓子 〜シスターエルフのレシピと事件簿
 少年は、ある場所へと向かっていた。
 
 どうしてこんなことになったのだろう。自分は何かしただろうか。
 
 ヨルンドに特別な信仰心はなかったが、この世に神がいるとは思えなかった。
 今は、聖書を鍋敷きに使っていたアルジェントを責める気もない。

(父さまが殺人鬼だったなんて)
 
 同時に、少なからず慕っていたコンティ伯を失った喪失感で呆然とする。
 何が悲しいのか自分でもわからなくて、涙も出ない。
 そんな少年の後を、少し離れた距離から尾ける一つの人影があった。
 
 
 静かな秋雨の中、子どもの勘か、ヨルンドは違和感に気づいた。
 ひたひたと自分に狙いを定めついて来る、執拗な捕食動物のような足音。
 いつか家庭教師に習った、サバンナの狩猟豹を想像してしまう。

 ヨルンドは思わず駆け出した。
 影もついて来ている、ような気がする。
 行手に見えた水車小屋に思わず逃げ込む。
 この近くで自警団がケーレスに襲われたのだと気づいたのは、隠れた後だった。

(どうしよう)
 窓から見える雨空のほうが室内よりうっすらと明るい。
 外に出れば見つかりそうで、ヨルンドは暗い小屋のすみに身をよせてふるえた。
 静けさが不安を煽る。

 突然、外でパキリと何かが軋む音がした。
(誰かがいる?)
 
 だが、木造の建物には家鳴りが聞こえることがあると、教えてくれたのはコンティ伯だった。
 怖がるヨルンドに説いてくれた、やさしい一面もあったことを思い出す。
(父さま、どうして──)
 
 そのとき、小屋に誰かが入って来た。
 戸口に立つ人物はフードを深くかぶり、また仄明るい外を背にしているので顔が見えない。
 手にしたナイフを確認するまでもなく、ヨルンドは反射的に逃げた。
 
 水車小屋は維持費がかかるため、もともと領主の管理下にある。
 どこに何が配置してあるかは、暗くてもだいたいわかる。
 小さな頃から遊び場だったのだ。
 
 しかしせまい小屋の中である、すぐに壁際へ追いつめられてしまった。
 怖さで躰が強ばるが、後ろ手にふれたものをぎゅっとにぎる。

(トリアー神父だってケーレスをやっつけたんだ。ぼくだって……ククーシュカを護れるくらいに!)
 
 相手はまさか、ヨルンドが窮鼠のように噛みついて来るとは思わなかったのだろう。
 鍬で歯向かって来た少年に一瞬ひるんだが、そのめちゃくちゃな太刀筋に嘲笑すると、鍬ごとヨルンドを蹴り飛ばした。
 
 いやと言うほど躰を壁で強打し、ヨルンドは床に倒れ込んだ。
 敵が自分のことを歯牙にもかけていないとわかると恐怖が暴走し、鼓動がばくばくと高鳴った。
「うう……わあああん!」

(助けて、誰か助けて──!)

 その頃、ククーシュカは村はずれまで来ていた。
「ヨルンドー!」
 雨音にかき消されないよう、声の限り名前を呼ぶ。
 
 雨脚はどんどん強くなり、ほおを打つ雨つぶも大きくなってくる。
 こんな中に長時間いれば、子どもでなくとも躰は冷え切ってしまうだろう。
 
 オロスコに以前案内された墓標のある丘から下を眺めながら、呆然と雨の中を立ち尽くした。
 この先は川くらいしかない。

(川……イリス川!)
 
 以前ヨルンドが話してくれたことを思い出し、ククーシュカは走った。
「ヨルンド!」

 遠くでかすかに声が聞こえた気がして、捕食者はぴくりと肩を上げた。
 さっさと始末しなくては邪魔が入る。
 フードの人物はわざとヨルンドが使おうとしていた鍬を持ち、床をごりごりと引きずって来た。
 
 少年は今度こそ自分が殺されることを悟った。
 涙で何もかもが滲んだがどうすることもできない。
 だが刃物の鈍い光が翳されたとき、ヨルンドはただせめてもの最後の反撃にと、つかんだものをぶちまけた。

「!」
 挽臼に残っていた粉を浴び、敵は目を覆った。
 相手から視界が消えたその一瞬をヨルンドは見逃さなかった。
 ひざの感覚がなかったが、弾かれたように駆け出し小屋を出る。
 そのまま雨の川べりを一目散に走って逃げた。

 ククーシュカが丘をすべるように駆け降り目をこらすと、橋の上に人影が見えた。
 小さな少年がよろめきながら走っている。
 ヨルンドに間違いない。
 
 呼んでも聞こえないのか、こちらに気づかず走り続ける。
 欄干は低く、見るからに危ない。

「ヨルンド、もどって!」
 ククーシュカが再度呼びかけると少年はこちらをふり返ったが、よろよろと足が縺れ、そのまま川に転落した。
「きゃああ! ヨルンド!」
 
 水量雨のためはいつもより増している。
 子どもの躰は瞬く間に流れに飲み込まれてしまう。

「今助けるわ、待っててヨルンド!」
 欄干に足をかけたククーシュカの肩が、ぐいと引きもどされる。
 アルジェントは纏っていたマントをちぎるようにはずすと、躊躇なく流れへ飛び込んだ。

「トリアー神父!」
 泳ぐアルジェントを追い、川べりを流れに沿ってククーシュカも走る。
 
 彼は浮き沈みする少年をあっという間に捕え、岸に上がって来た。
 大きな腕にかかえられ、ヨルンドはぐったりしている。

「水は飲んでいない、大丈夫だ」
 アルジェントが気道を確保すると、大きく咳き込みヨルンドは息をふき返した。
 薄い胸が上下し、呼吸を取りもどす。

「トリアー神父、ケーレスが顕れたんだ……!」
「なんだと?」
「早く、捕まえて……」
 
 途切れ途切れになりながらも、ヨルンドは小屋で襲われたことを話した。
 自分が恐れていたことが実際に起き、ククーシュカはまっ青になった。

「後でイスマイルたちをこちらによこす。お前の介抱が先だ」
 愕然としていたククーシュカも、ようやく話しかけた。

「でもヨルンド、どうしてひとりでイリス川へ?」
「……ここで、父さまと釣りをしたことを思い出して、川を見たくなったんだ」
「こんな天候の日に川岸に出るのは、あまり利口とは言えんな」
 諭され、ヨルンドはうつむく。

「ごめんなさい。ここに来たら、父さまがいるような気がして……」
「……!」
 ククーシュカは、たまらずヨルンドを抱擁した。
 抱きしめられ、ヨルンドはびしょぬれの顔をククーシュカに押しつける。

「……ぼく、いい子じゃなかった?」
「そんなことないわ、ヨルンド」
「でも、ずっと父さまの帰りを待ってたのに……」
「あなたは何も悪くない」
「父さま、どうして……!」
 
 ヨルンドは声をあげて泣いた。
「あんな大きな家だけあったって、ぶどう畑だけあったって、ぼくはひとりじゃないか……!」
 
 ククーシュカもアルジェントも、ヨルンドのことをませた子どもだと思っていた。
 だが早くに両親を亡くした十歳の彼は、むしろ幼かったのだ。
 ただ必死で、早く大人になれるよう、コンティ伯にきらわれないよう、せいいっぱい背伸びをしてきただけだ。
 
 ヨルンドは泣き疲れて眠り、ククーシュカは腕の中でその鳶色の髪をずっとなでていた。

「……チッ」
 ブナの木の影から、フードの人物が踵を返して去って行ったのを、誰も気づかなかった。
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