修道女のお菓子 〜シスターエルフのレシピと事件簿
それから数日後、ヨルンドとの別れの日がやって来た。
彼は華都の全寮制の寄宿舎へ行くことになったのだ。
ククーシュカたちが見送りに行くと、少年は初めてきちんと正装していた。
「ぼく、もっとたくさん勉強して来るよ。いつかここを継ぐために」
ぶどう園は、それまで伯父が管理するという。
「まあ、今は爵位も売り買いできる時代だ。人生何があるかわからんしな。お前もいつ何が起きてもいいよう、自立するすべを学んでおくんだな」
相変わらず上から目線のアルジェントに、ヨルンドはふふんと鼻を鳴らす。
「そんな悠長なこと言っていいの? トリアー神父。ぼくが伯爵になって帰って来たら、ククーシュカは玉の輿だよ?」
「バカめ。わたしたちは聖職者、生涯独身だ」
「でも、人生は何があるかわからない、でしょ?」
ヨルンドはニヤリと悪い笑みを浮かべた。
(あの笑い方ったら、トリアー神父にそっくり)
いつの間に移ったのか、まるでアルジェントが父親だったようだ。
ふき出しそうなククーシュカに、ヨルンドは真面目な顔で言った。
「ねえククーシュカ、もっとわがままになりなよ。トリアー神父だってこうなんだから、そんなにいい子にならなくたっていいんだよ」
ククーシュカは苦笑したが、こんな小さな少年が自分を見て助言をくれたことに、胸があたたかくなった。
そんな心地をよそに、アルジェントが割り入って来る。
「ああそうだ、ヨルンド。お前の家にあった甲冑だが」
証拠品として一度イスマイルが押収したのだが、もう調べはついたのでアルジェントは屋敷に返そうと思ったのだ。
彼やコンティ家にとっては、大事な家宝かもしれない。
だがヨルンドは面倒くさそうに肩をすくめた。
「あんなのいらないよ、ただの飾りだもの。資料館にでも寄贈するよ」
「そ、そうか」
意外とあっさりとした返事に肩透かしを食らう。
「なんなら、付属の武器も持ってってよ」
「武器……剣であるな」
「違うよ、弓矢。ほら、あれ」
ヨルンドが指した先には見たことのある鉄矢が立てかけてあり、アルジェントとククーシュカは驚いて顔を見あわせた。
「ぼっちゃま、そろそろ」
つき添いの弁護士から声がかかる。
馬車に乗ったヨルンドは一瞬泣きそうな表情になったが、すぐに笑顔になり窓から顔を出した。
強がりは、やがて本物の強さになるだろう。
そんな思いで、ククーシュカはヨルンドへ手をふった。
「トリアー神父、あの矢は……」
口に出さずにはいられなかった。
あれは、コンティ伯を撃った鉄矢だ。
つまり彼は、皮肉にも自分の装備で殺されたのだ。
「確か……トリアー神父が甲冑姿のコンティ伯と戦ったとき、石を投げたひとがいましたね」
「同一人物だとしたら、前回はやつを助け今回は殺したと? 行動が一致せんな」
しかしどちらにせよ、もうひとり共犯者がいるのは事実だ。
祭りで刺された男性は、一瞬の出来事で誰にやられたのか、まったくわからなかったと言う。
陽動だったのだろう。
ふたりのうちどちらかが騒ぎを起こし、もうひとりが被害者を襲う。
「これから相手がどう出るかだな」
アルジェントは大きく嘆息した。
午後はイスマイルが来て少し話した後、ふたりはまた捜査に出かけて行った。
(トリアー神父も、なかなか気が休まらないだろうな)
気づけば、いつものマントが壁にかかったままだ。
外は冷えるだろうと思い、ククーシュカはアルジェントを追いかけた。
別行動をすると言っていたがそう時間は経っていないので、ふたりともまだ敷地内にいるはずだ。
馬舎のほうで声がしたので出て行こうとすると、ふいに自分の名前が聞こえてきた。
「ククーシュカを、そろそろ事件から解放してあげてはどうです?」
そう、ため息まじりに言うのはイスマイル。
いったいなんの話だろう。
ククーシュカはとっさに身を隠す。
「あいつを警戒しろと言っていたお前が、ほだされたものだな」
続いてアルジェントの呆れた声。
「ククーシュカは、あなたを慕っています」
(な……何を言ってるのイスマイルさん!)
ククーシュカはまっ赤になって、思わず飛び出しそうになった。
だがアルジェントは泰然としたものだ。
「あれは生まれたばかりのヒナのようなものだ、親鳥の後をついて来てるに過ぎん」
顔が見えないので、照れ隠しなのか本気の言葉なのかわからない。
「ですが、この間もアルさまが来るのが一歩遅かったら、彼女はコンティ伯に殺されていたかもしれないんですよ」
めずらしくイスマイルは苛ついている。
「あの件は確かにわたしの失態だった。だが、捜査にはあいつの協力が必要なのだ」
(必要だなんて)
ここからは声しか聞こえないククーシュカは、ふたりに心配をかけてしまったことを申し訳なく思い、同時に浮かれていた。
次の言葉を聞くまでは。
「彼女は大事な囮だからな」
(……おとり?)
「言っただろう、教会において監視していると。あいつの周りではなぜか事件が起きる。そばにおいておけば、いずれケーレスに辿り着くはずだ」
「しかし……」
「同情は捨てろ、捜査の邪魔だ。我々は教皇庁検邪聖省審査官、優先すべきはなんだ?」
それだけ聞けば十分だった。
くるりと踵を返し、そっと走り出す。
『検邪聖省審査官』。
その活動内容は教義に反する事柄の調査、もしくは排除。
それくらいは自分も知っている。
ククーシュカは司祭館へもどると、アルジェントの部屋へ入った。
罪悪感に囚われながらも引き出しを開けると、一枚の羊皮紙が目に入る。
「報告書……」
そこには、先ほどの会話の真実を裏づける、信じがたい文面がつづられていた。
〝リリウム司教の真の目的は、彼女が引き取ったエルフの臓器である。
司教はこれをよりよい状態で収集するため、弱ったエルフの面倒を見ていたと思われる。
調査の結果、《《人間の血を引くエルフ》》は魔物を引きよせ、またその臓器は万病の薬のため『世紀の遺物』であることが──〟
彼は今まで、なんの捜査をしてきたのだろう?
(ケーレスの退治とともに、『世紀の遺物』を探していた?)
頭がぐるぐると混乱する。
ククーシュカは、ぐしゃりと羊皮紙をにぎりしめていた。
報告書を机にもどし部屋を出ると、足もとの床がゆれているような錯覚を起こした。
(ほめてくださったのも、はげましてくださったのも、全部捜査のため?)
それでは、リリウムと変わらないではないか。
コンティ伯に殺されそうになったとき、ものすごい剣幕で助けに来たアルジェント。
あれも囮として護るためか。
そして無事捜査が終了すれば、自分の身柄はいずれアルジェントによって教皇庁に移されるのか。
彼は忠実な『神の犬』なのだから。
それから? 調べられる? 殺される?
(それがトリアー神父の希望なら、それでも……)
現状に抗うより、そう考えたほうが楽だった。
今までは。
ククーシュカは、ぎゅっと手のひらをにぎりしめた。
初めは、怖いひとだと思った。
顔も声も怖く、何を考えているのかわからなかった。
だがやがて、神経質な目はきれいな色をしていることに気づいた。
意外と単純で、笑うと少し幼くなることも。
長い指、雪原のような銀髪。みつろうの煙が染み込んだ僧服の匂い。
いくつものアルジェントの欠片は、ひろい集めるとククーシュカの中で宝物になった。
今さら、どうやって憎めばいいのかわからない。
ただ、ここにはもういられないと思った。
ひとりでだって生きて行ける。これまでもそうだったのだから。
どこかの森でひっそりと暮らそうか。それとも、聖都でエルフの仕事を探すか。
それもいいかもしれない。あんなにたくさんエルフやヒトのいる都会なら、自分にとって居心地のいい場所も見つかるかもしれない。
ただそこに、アルジェントがいないことをのぞけば。
ククーシュカは、トリーネの形見のスカーフだけポケットに入れると、司祭館を出た。
教会の正面門を抜けると、人影があった。
待っていたようにクロエが立っている。
彼女はいつもの覇気がなく、顔が陰って見えた。
「みんないなくなったわ。トリーネも、ヒューも……」
クロエからすれば近しい者たちだった。
彼らは被害者と加害者とはいえ、どちらもクロエには大切な存在だったはずだ。
そういえば、あの事件から彼女には会っていなかった。どうしていたのだろう。
自分のことでいっぱいで、彼女を思いやれなかったことを、ククーシュカは口惜しく思った。
クロエのこんな顔はこれまで見たことがない。
彼女はいつも、怒っているか笑っているかのどちらかだったから。
かける言葉に迷っていると、クロエは静かに顔を上げた。
「でもあなたがいるわ、ククーシュカ」
クロエは沈んで見えたが、ククーシュカの緑の瞳をじっとのぞき込んで言った。
「ねえ、あたしといっしょに村を出ない? 聖都へ行きましょう。こんなつらいところはもういやなの。あなたもそうでしょ?」
突然の申し出に戸惑う。
自分も、さっきまで同じことを考えていたのだ。
なのに、すぐにはうんと言えなかった。
クロエはつまらなさそうにくちびるを尖らせる。
「……ふうん、トリアー神父のことが好きなのね」
「へ?」
とたんに顔がまっ赤になる。
「正直な子ねえ、いやになっちゃう。でも、それはすり込みよ。生まれたての動物が最初に見たものになつくようなものよ」
同じことを、アルジェント本人も言っていた。
自分は恋をしたことがない。
だから、この気持ちがどういうものかわからないし、ふたりが言うならそれが本当なのだろう。
(でも、心にどんな名前がついていようとかまわないのでは?)
そんな思いが去来して何か言いたげなククーシュカの手を、クロエが唐突に取る。
「一番星が出たら、村はずれの丘まで来て。返事はそのときでいいわ、待ってるから」
そう言うと、クロエは軽やかに去って行った。
ククーシュカは、クロエの手の温度に驚きながら手のひらを見た。
確か、祭りの日も冷たかった。
村の女性たちに多い、彼女も冷える体質なのだろう、あまり待たせるわけにはいかない。
(決めなくちゃいけないんだ)
今、気持ちを分かちあえるのはクロエだけだ。
何より自分を利用する者より、必要としてくれる者といるほうがきっと正しい。
そう思い歩き出したが、いろいろと思い出のある広場まで来ると足が止まってしまった。
ここで湿布を持って初めての営業をした。祝祭でお菓子も売った。
たくさんの出来事があふれてきて、到底忘れられるわけがなかった。
ため息をつき、ベンチに腰を下ろす。
「どうした、シケた顔をして」
唐突に声が降ってきた。
買い物かごをかかえたルカが、不審そうに見下ろしている。
彼女に会うのは、ククーシュカがコンティ伯に襲われて以来だ。
「大変な目に遭ったのに、助かってよかったって感じじゃないな」
「師匠……」
ルカがククーシュカのとなりにすわる。
「お前にそんな顔をさせるのは、どうせあの似非神父だろ」
「トリアー神父は……」
「やつの裏の顔でも見てしまったか。まあ、うさんくさいやつだしな。だがな、ククーシュカ」
ルカは、かごから出したりんごをがりりと一つほおばった。
「女は愛する者の前では愚者になる、罪深い生き物だ。それなら信じて堕ちるしかない」
とても男勝りのルカの思想とは思えず、ククーシュカは驚いた。
「ルカ師匠は、オロスコさんのことを信じてるんですか」
「もちろん信じている」
「裏切られたら? 悲しくないんですか? 怒らないんですか?」
「そりゃ悲しいし、怒りもする」
持っていたりんごがぐしゃりとつぶされ、ククーシュカはぶるっとふるえた。
「だが傷つくことを恐れていては誰かを好きになる資格はない。それに、本気で恋ができる相手など、人生でそうそう廻っては来ないものだ。お前も多少バカでわがままにならんと、生きにくいぞ」
(もっとわがままになりなよ──)
小さな少年の声が胸に響く。
今なら少しだけ、自分を騙した男を愛し続けた母の気持ちがわかる気がした。
ククーシュカはおそるおそる尋ねてみた。
「わたしは、いい子なのでしょうか」
「いいや、悪い子だ」
立ち上がったルカから新しいりんごが放られる。
「修道女のくせに恋なんぞして」
受け取ったりんごのように赤くなったククーシュカのほおを見て、ルカは満足げに笑った。
一方、アルジェントは村で聞き込みをし、ひとり、ある建物に来ていた。
「無断欠勤?」
「ええ、二日間ほどですがね。出て来たときどうしたんだと聞いたら、病で伏せってたと」
「それは、いつぐらいのことかわかるか」
「リリウムさまがああなる少し前のことだよ。休んだことなどないからね、ちょっと憶えてたのさ。それが何か関係あるのかね」
「いや、関係ないに越したことはないのだが。ところで、自宅はわかるか?」
「ああ、確か──」
男が場所を説明すると、アルジェントは「ありがとう」と僧服をひるがえす。
この強面が礼を言うとは思っていなかったようで、男は面食らっていた。
アルジェントは先を急いだが、訪ねた先は不在で誰もいなかった。
すでに夕刻。仕事も終わり、本来なら帰宅している時間である。
「邪魔するぞ」
勝手にあがり、中を確かめる。
あまり生活感のないキッチン、ダイニングを見て回るが、不審なものや血なまぐさいものは何もない。
臓器入りの壜を隠すような地下室なども見当たらない。
アルジェントは広い家の奥へ進んだ。
邸宅と呼ぶにふさわしい、天蓋つきのベッドルーム。
備えつけのクローゼットの扉をぐっと開く。
それを探していたわけではなかった。だが──
(これは……)
彼は華都の全寮制の寄宿舎へ行くことになったのだ。
ククーシュカたちが見送りに行くと、少年は初めてきちんと正装していた。
「ぼく、もっとたくさん勉強して来るよ。いつかここを継ぐために」
ぶどう園は、それまで伯父が管理するという。
「まあ、今は爵位も売り買いできる時代だ。人生何があるかわからんしな。お前もいつ何が起きてもいいよう、自立するすべを学んでおくんだな」
相変わらず上から目線のアルジェントに、ヨルンドはふふんと鼻を鳴らす。
「そんな悠長なこと言っていいの? トリアー神父。ぼくが伯爵になって帰って来たら、ククーシュカは玉の輿だよ?」
「バカめ。わたしたちは聖職者、生涯独身だ」
「でも、人生は何があるかわからない、でしょ?」
ヨルンドはニヤリと悪い笑みを浮かべた。
(あの笑い方ったら、トリアー神父にそっくり)
いつの間に移ったのか、まるでアルジェントが父親だったようだ。
ふき出しそうなククーシュカに、ヨルンドは真面目な顔で言った。
「ねえククーシュカ、もっとわがままになりなよ。トリアー神父だってこうなんだから、そんなにいい子にならなくたっていいんだよ」
ククーシュカは苦笑したが、こんな小さな少年が自分を見て助言をくれたことに、胸があたたかくなった。
そんな心地をよそに、アルジェントが割り入って来る。
「ああそうだ、ヨルンド。お前の家にあった甲冑だが」
証拠品として一度イスマイルが押収したのだが、もう調べはついたのでアルジェントは屋敷に返そうと思ったのだ。
彼やコンティ家にとっては、大事な家宝かもしれない。
だがヨルンドは面倒くさそうに肩をすくめた。
「あんなのいらないよ、ただの飾りだもの。資料館にでも寄贈するよ」
「そ、そうか」
意外とあっさりとした返事に肩透かしを食らう。
「なんなら、付属の武器も持ってってよ」
「武器……剣であるな」
「違うよ、弓矢。ほら、あれ」
ヨルンドが指した先には見たことのある鉄矢が立てかけてあり、アルジェントとククーシュカは驚いて顔を見あわせた。
「ぼっちゃま、そろそろ」
つき添いの弁護士から声がかかる。
馬車に乗ったヨルンドは一瞬泣きそうな表情になったが、すぐに笑顔になり窓から顔を出した。
強がりは、やがて本物の強さになるだろう。
そんな思いで、ククーシュカはヨルンドへ手をふった。
「トリアー神父、あの矢は……」
口に出さずにはいられなかった。
あれは、コンティ伯を撃った鉄矢だ。
つまり彼は、皮肉にも自分の装備で殺されたのだ。
「確か……トリアー神父が甲冑姿のコンティ伯と戦ったとき、石を投げたひとがいましたね」
「同一人物だとしたら、前回はやつを助け今回は殺したと? 行動が一致せんな」
しかしどちらにせよ、もうひとり共犯者がいるのは事実だ。
祭りで刺された男性は、一瞬の出来事で誰にやられたのか、まったくわからなかったと言う。
陽動だったのだろう。
ふたりのうちどちらかが騒ぎを起こし、もうひとりが被害者を襲う。
「これから相手がどう出るかだな」
アルジェントは大きく嘆息した。
午後はイスマイルが来て少し話した後、ふたりはまた捜査に出かけて行った。
(トリアー神父も、なかなか気が休まらないだろうな)
気づけば、いつものマントが壁にかかったままだ。
外は冷えるだろうと思い、ククーシュカはアルジェントを追いかけた。
別行動をすると言っていたがそう時間は経っていないので、ふたりともまだ敷地内にいるはずだ。
馬舎のほうで声がしたので出て行こうとすると、ふいに自分の名前が聞こえてきた。
「ククーシュカを、そろそろ事件から解放してあげてはどうです?」
そう、ため息まじりに言うのはイスマイル。
いったいなんの話だろう。
ククーシュカはとっさに身を隠す。
「あいつを警戒しろと言っていたお前が、ほだされたものだな」
続いてアルジェントの呆れた声。
「ククーシュカは、あなたを慕っています」
(な……何を言ってるのイスマイルさん!)
ククーシュカはまっ赤になって、思わず飛び出しそうになった。
だがアルジェントは泰然としたものだ。
「あれは生まれたばかりのヒナのようなものだ、親鳥の後をついて来てるに過ぎん」
顔が見えないので、照れ隠しなのか本気の言葉なのかわからない。
「ですが、この間もアルさまが来るのが一歩遅かったら、彼女はコンティ伯に殺されていたかもしれないんですよ」
めずらしくイスマイルは苛ついている。
「あの件は確かにわたしの失態だった。だが、捜査にはあいつの協力が必要なのだ」
(必要だなんて)
ここからは声しか聞こえないククーシュカは、ふたりに心配をかけてしまったことを申し訳なく思い、同時に浮かれていた。
次の言葉を聞くまでは。
「彼女は大事な囮だからな」
(……おとり?)
「言っただろう、教会において監視していると。あいつの周りではなぜか事件が起きる。そばにおいておけば、いずれケーレスに辿り着くはずだ」
「しかし……」
「同情は捨てろ、捜査の邪魔だ。我々は教皇庁検邪聖省審査官、優先すべきはなんだ?」
それだけ聞けば十分だった。
くるりと踵を返し、そっと走り出す。
『検邪聖省審査官』。
その活動内容は教義に反する事柄の調査、もしくは排除。
それくらいは自分も知っている。
ククーシュカは司祭館へもどると、アルジェントの部屋へ入った。
罪悪感に囚われながらも引き出しを開けると、一枚の羊皮紙が目に入る。
「報告書……」
そこには、先ほどの会話の真実を裏づける、信じがたい文面がつづられていた。
〝リリウム司教の真の目的は、彼女が引き取ったエルフの臓器である。
司教はこれをよりよい状態で収集するため、弱ったエルフの面倒を見ていたと思われる。
調査の結果、《《人間の血を引くエルフ》》は魔物を引きよせ、またその臓器は万病の薬のため『世紀の遺物』であることが──〟
彼は今まで、なんの捜査をしてきたのだろう?
(ケーレスの退治とともに、『世紀の遺物』を探していた?)
頭がぐるぐると混乱する。
ククーシュカは、ぐしゃりと羊皮紙をにぎりしめていた。
報告書を机にもどし部屋を出ると、足もとの床がゆれているような錯覚を起こした。
(ほめてくださったのも、はげましてくださったのも、全部捜査のため?)
それでは、リリウムと変わらないではないか。
コンティ伯に殺されそうになったとき、ものすごい剣幕で助けに来たアルジェント。
あれも囮として護るためか。
そして無事捜査が終了すれば、自分の身柄はいずれアルジェントによって教皇庁に移されるのか。
彼は忠実な『神の犬』なのだから。
それから? 調べられる? 殺される?
(それがトリアー神父の希望なら、それでも……)
現状に抗うより、そう考えたほうが楽だった。
今までは。
ククーシュカは、ぎゅっと手のひらをにぎりしめた。
初めは、怖いひとだと思った。
顔も声も怖く、何を考えているのかわからなかった。
だがやがて、神経質な目はきれいな色をしていることに気づいた。
意外と単純で、笑うと少し幼くなることも。
長い指、雪原のような銀髪。みつろうの煙が染み込んだ僧服の匂い。
いくつものアルジェントの欠片は、ひろい集めるとククーシュカの中で宝物になった。
今さら、どうやって憎めばいいのかわからない。
ただ、ここにはもういられないと思った。
ひとりでだって生きて行ける。これまでもそうだったのだから。
どこかの森でひっそりと暮らそうか。それとも、聖都でエルフの仕事を探すか。
それもいいかもしれない。あんなにたくさんエルフやヒトのいる都会なら、自分にとって居心地のいい場所も見つかるかもしれない。
ただそこに、アルジェントがいないことをのぞけば。
ククーシュカは、トリーネの形見のスカーフだけポケットに入れると、司祭館を出た。
教会の正面門を抜けると、人影があった。
待っていたようにクロエが立っている。
彼女はいつもの覇気がなく、顔が陰って見えた。
「みんないなくなったわ。トリーネも、ヒューも……」
クロエからすれば近しい者たちだった。
彼らは被害者と加害者とはいえ、どちらもクロエには大切な存在だったはずだ。
そういえば、あの事件から彼女には会っていなかった。どうしていたのだろう。
自分のことでいっぱいで、彼女を思いやれなかったことを、ククーシュカは口惜しく思った。
クロエのこんな顔はこれまで見たことがない。
彼女はいつも、怒っているか笑っているかのどちらかだったから。
かける言葉に迷っていると、クロエは静かに顔を上げた。
「でもあなたがいるわ、ククーシュカ」
クロエは沈んで見えたが、ククーシュカの緑の瞳をじっとのぞき込んで言った。
「ねえ、あたしといっしょに村を出ない? 聖都へ行きましょう。こんなつらいところはもういやなの。あなたもそうでしょ?」
突然の申し出に戸惑う。
自分も、さっきまで同じことを考えていたのだ。
なのに、すぐにはうんと言えなかった。
クロエはつまらなさそうにくちびるを尖らせる。
「……ふうん、トリアー神父のことが好きなのね」
「へ?」
とたんに顔がまっ赤になる。
「正直な子ねえ、いやになっちゃう。でも、それはすり込みよ。生まれたての動物が最初に見たものになつくようなものよ」
同じことを、アルジェント本人も言っていた。
自分は恋をしたことがない。
だから、この気持ちがどういうものかわからないし、ふたりが言うならそれが本当なのだろう。
(でも、心にどんな名前がついていようとかまわないのでは?)
そんな思いが去来して何か言いたげなククーシュカの手を、クロエが唐突に取る。
「一番星が出たら、村はずれの丘まで来て。返事はそのときでいいわ、待ってるから」
そう言うと、クロエは軽やかに去って行った。
ククーシュカは、クロエの手の温度に驚きながら手のひらを見た。
確か、祭りの日も冷たかった。
村の女性たちに多い、彼女も冷える体質なのだろう、あまり待たせるわけにはいかない。
(決めなくちゃいけないんだ)
今、気持ちを分かちあえるのはクロエだけだ。
何より自分を利用する者より、必要としてくれる者といるほうがきっと正しい。
そう思い歩き出したが、いろいろと思い出のある広場まで来ると足が止まってしまった。
ここで湿布を持って初めての営業をした。祝祭でお菓子も売った。
たくさんの出来事があふれてきて、到底忘れられるわけがなかった。
ため息をつき、ベンチに腰を下ろす。
「どうした、シケた顔をして」
唐突に声が降ってきた。
買い物かごをかかえたルカが、不審そうに見下ろしている。
彼女に会うのは、ククーシュカがコンティ伯に襲われて以来だ。
「大変な目に遭ったのに、助かってよかったって感じじゃないな」
「師匠……」
ルカがククーシュカのとなりにすわる。
「お前にそんな顔をさせるのは、どうせあの似非神父だろ」
「トリアー神父は……」
「やつの裏の顔でも見てしまったか。まあ、うさんくさいやつだしな。だがな、ククーシュカ」
ルカは、かごから出したりんごをがりりと一つほおばった。
「女は愛する者の前では愚者になる、罪深い生き物だ。それなら信じて堕ちるしかない」
とても男勝りのルカの思想とは思えず、ククーシュカは驚いた。
「ルカ師匠は、オロスコさんのことを信じてるんですか」
「もちろん信じている」
「裏切られたら? 悲しくないんですか? 怒らないんですか?」
「そりゃ悲しいし、怒りもする」
持っていたりんごがぐしゃりとつぶされ、ククーシュカはぶるっとふるえた。
「だが傷つくことを恐れていては誰かを好きになる資格はない。それに、本気で恋ができる相手など、人生でそうそう廻っては来ないものだ。お前も多少バカでわがままにならんと、生きにくいぞ」
(もっとわがままになりなよ──)
小さな少年の声が胸に響く。
今なら少しだけ、自分を騙した男を愛し続けた母の気持ちがわかる気がした。
ククーシュカはおそるおそる尋ねてみた。
「わたしは、いい子なのでしょうか」
「いいや、悪い子だ」
立ち上がったルカから新しいりんごが放られる。
「修道女のくせに恋なんぞして」
受け取ったりんごのように赤くなったククーシュカのほおを見て、ルカは満足げに笑った。
一方、アルジェントは村で聞き込みをし、ひとり、ある建物に来ていた。
「無断欠勤?」
「ええ、二日間ほどですがね。出て来たときどうしたんだと聞いたら、病で伏せってたと」
「それは、いつぐらいのことかわかるか」
「リリウムさまがああなる少し前のことだよ。休んだことなどないからね、ちょっと憶えてたのさ。それが何か関係あるのかね」
「いや、関係ないに越したことはないのだが。ところで、自宅はわかるか?」
「ああ、確か──」
男が場所を説明すると、アルジェントは「ありがとう」と僧服をひるがえす。
この強面が礼を言うとは思っていなかったようで、男は面食らっていた。
アルジェントは先を急いだが、訪ねた先は不在で誰もいなかった。
すでに夕刻。仕事も終わり、本来なら帰宅している時間である。
「邪魔するぞ」
勝手にあがり、中を確かめる。
あまり生活感のないキッチン、ダイニングを見て回るが、不審なものや血なまぐさいものは何もない。
臓器入りの壜を隠すような地下室なども見当たらない。
アルジェントは広い家の奥へ進んだ。
邸宅と呼ぶにふさわしい、天蓋つきのベッドルーム。
備えつけのクローゼットの扉をぐっと開く。
それを探していたわけではなかった。だが──
(これは……)