修道女のお菓子 〜シスターエルフのレシピと事件簿
第10章 しあわせな菓子の作り方
空が暮色を帯びる頃、ククーシュカは村はずれに着いた。
荊の茂みの向こうに、夕陽に照らされ赤く反射する栗色の髪がすでに見える。
ククーシュカが息を切らし丘へ上がると、クロエはおだやかな笑顔で言った。
「いいの、気にしないで。そうだと思った」
「え、あの……」
伝える前に、彼女は気づいたらしい。
ふいと後ろを向かれ、ククーシュカは申し訳なさそうにうつむく。
「……ごめんなさい、いっしょに行きたくないわけじゃないんです。お祭りにも誘ってくれてうれしかった」
「嘘ばっかり」
少女の声が一瞬低まって聞こえ、ククーシュカはぎくりとした。
だがクロエはすぐにふり返って、にっこりと笑う。
「ククーシュカったら、踊れないなんて嘘ばっかりね」
祝祭でダンスを見たのだろう。クロエは、少しだけ意地悪に口もとをゆがめた。
「ご、ごめんなさい」
それでも、本気で怒っているわけではなさそうだ。悪戯っぽく微笑む。
「あなたってここに来たときからそう。秘密がいっぱいなのね、興味があったわ」
(クロエは、ぼくよりきみに興味があるみたいなんだ)
コンティ伯の言葉が過ぎった。
ストレートに慕ってくれたヨルンドとは、また違う好意のようで緊張する。
「そんなに、あの神父がいいわけ?」
呆れたように肩をすくめるクロエ。
その質問にはどもったが、ククーシュカはためらいながらも言葉にした。
「トリアー神父、わたしに隠してることがあるみたいで、それを確かめるまでは教会にいたいんです」
「あなたが傷つく結果になっても?」
「はい。好きでいるのは自由だって思うんです」
「あなたって、バカねえ」
「はい」
ふっ切れたように笑うククーシュカを、クロエは真顔で見返した。
「……強くなったのね、ククーシュカ。おびえた小動物みたいなあなたが好きだったのに」
「え?」
「聖都へはひとりで行くわ。だから、餞別にあなたの──」
「逃げろククーシュカ!」
後方の声に思わずふり返る。
「そいつは──ケーレスだ!」
「!」
クロエの手から逆手に跳ね上がったナイフが、ククーシュカのひたいをかすった。
はらりとヴェールが落ち、長耳があらわになる。
こめかみを伝い落ちる赤いすじ。
突然のことにククーシュカは腰を抜かし、ぺたりとすわり込んだ。
血のついたナイフをクロエはぺろりとなめると、酩酊しているように恍惚とほおを染める。
「……これがエルフの血!」
「貴様、知っていたのか!」
抜剣するアルジェントは進路をふさがれた。
クロエはククーシュカにナイフを突きつけたまま、嘲笑する。
「彼女が村に来たときからね。エルフの躰は花のような香りがするのよ」
「道理で執拗につき纏ってたわけだ。ずっとこいつを狙ってたんだな」
「あら、本当に好きだったのよ。だから、どうしても心臓がほしいの」
「とんだメンヘラだな、反吐が出る」
アルジェントは、毒づきながらも注意深く間合いを取った。
クロエの後ろにいるククーシュカの安全を確認しながら。
「どうしてあたしだとわかったの?」
不服そうにクロエは訊いた。
「被害者の自宅や勤め先で関係者を洗っていき、トリーネの毛織り物工場でお前の家も聞いた──コンティ伯の別宅に住んでいたそうだな。
そこに彼の弓だけがあった。ヨルンドは自宅の方にあると言っていたぞ。鉄矢は使ったのだな、殺すために」
「あの男、あたしにぞっこんだから使ってやったけど、役立たずだったわ。甲冑まで装備したのに、あんたにあっさりやられちゃったし」
クロエは事もなげに肩をすぼめる。
「あの晩、わたしに石を飛ばしたのもお前か」
「ええ。あそこで正体がバレちゃ困るもの。彼にはまだまだ手伝ってもらうことがあったしね」
「コンティ伯に注意を集め、そのすきに自分は殺しを行う。あのときもそのつもりだったのだな……お前は初めから気にくわなかった!」
「それはこっちのセリフよ!」
嗤いながら地を蹴り、クロエは跳躍した。
無謀にも、ナイフ一本で長剣に挑もうというのか。
くり出すクロエの腕を取り、アルジェントは投げ飛ばす。
クロエは空中でそのまま躰をまるめると、くるると回転した。
着地した幹を蹴り、音よりも速くアルジェントの胸へ斬撃を突く。
「ふん……!」
剣で受けた刃先はこちらが攻めるより先に引き、また次の一刃が襲う。
重さはないが、コンティ伯とは比べものにならない速さだ。
何もできないククーシュカは、息を呑んで見守るしかなかった。
膂力もないはずのクロエの、どこにこんな力が充填されているのか。
リリウムとはタイプが違うが、明らかに人間から逸脱している。
アルジェントは取り出した小壜から、黄色の液体をクロエへ浴びせかけた。
「!」
一瞬ひるんだすきに掌打を食らわせ、剣を突きつける。
「ククーシュカは返してもらうぞ」
「ふ……それで先手を打ったつもり?」
(ヘンルーダが効かない?)
ククーシュカは青ざめた。
「ケーレスではないのか……お前はなんなのだ、栗毛!」
「さあね、あたしにもわからないわ。ただ、わかっているのは……」
──かつて、ある村に小さな家族がいた。
おひとよしの両親と、少しわがままなひとり娘。
ありふれた家庭のありふれた暮らしは、みんなが顔なじみの村では、どこも変わりがなかった。
目立った産業も特産物もないが、それでも満足して村人たちは平和におだやかに暮らしていた。
少女も、両親のようにいずれはここで誰かと結婚し、ずっとこの村で生きて行くのだと思っていた。
だがそんなどこにでもある日常は、異なる種族同士の騒乱の最中、唐突に終わりを告げた。
その日、クロエは家の庭に、怪我をしたエルフの少年がうずくまっているのを見つけた。
戦いから這々の体で逃げて来たのか、助けてくれと懇願され、クロエは哀れに思い両親に頼んでかくまうことにした。
簡単な応急処置を施し食事を与え、一晩だけ納屋に泊めてやった。
翌日、陽の上がる前に納屋へ行くと、中は誰もいなかった。
クロエは、あのエルフは仲間のもとに帰ったのだろうと安心した。
だが事件は起きた。
逃げる途中に見つかったのか、村人に攻撃されたから襲い返したのか。
少年のエルフは、納屋から持ち出していた武器で村人を刺した。
彼が持っていた革包丁から、すぐにローヴェル家が浮かび上がった。
クロエの父は、靴職人だったのだ。
納屋も調べられ、一泊させたことも村に知れわたった。
すんでのところで両親に逃がされ、村はずれの洞窟に隠れていたクロエは、翌日朝陽が登る前に家にもどり、エルフともども庭先の木に吊されている父母と対面した。
クロエの両親は談義の結果、裏切り者として処刑されたのだ。
昨日まで、笑いあっていた仲間に。
「信じられる? 敵のエルフじゃない、同じ人間の手で殺されたのよ」
「嘘です、レヴァンダのひとたちがそんなことするわけない!」
ククーシュカは声を荒げ訴えた。
「レヴァンダじゃない、あたしは別の村から来たのよ……小さな、箱庭みたいな村だった。凝り固まった価値観も正義も、ゴミ屑のようなね。もう、誰もいないけれど」
「どうして……誰もいないの」
尋ねるククーシュカに、伏目だったクロエの瞳はいきなり楽しげに見開いた。
「殺されたエルフの屍体をね、敵の陣地に放り込んだの。いい考えでしょう?」
煽るような宣戦布告。
ちっぽけな村にバカにされたと、相手はさぞ激憤しただろう。
村は、一日も経たず全滅した。
自ら血だらけになりながら、昂ってエルフを運ぶクロエを想像すると背筋が凍る。
だが自分も似た理由で両親を亡くしたククーシュカは、絶望の思いでクロエを責めた。
「でもなぜ? ここのひとたちは何もしていない。なぜ殺したのですか!」
クロエはうっとりとククーシュカを見つめる。
「神を呪うあたしに、囁く声が聞こえたの。魔に堕ちればいいと。
ねえ、知ってる? 百人殺せば妖力が手に入るって。
あたしは、どちらにも属さない至高の存在になったのよ!」
「愚かな……!」
呻くようなつぶやきがアルジェントの口からもれた。
「自ら獣に成り果てたのか……!」
が、その苦鳴はやがて唸りに変わった。
ガルル……
「し、神父さま……?」
怒りに裂けた口から牙が生える。
ふくれ上がった胸筋は僧服を破き、ふさふさとした白い胸毛が表れる。
みるみる躰をおおう髪と同じ銀の体毛、ぴんと跳ね上がった耳。
ククーシュカは、目の前で起きていることが信じられなかった。
クロエも愕然と動けずにいる。
「あ、あんた……!」
二本の脚で立ってはいるが、
(ワーウルフ!)
アルジェントは獣人──人狼の姿をしていた。
「百人殺しはお前だけではない、月下聖剣!」
「な──あああああっ!」
特別な力を授かったのが自分だけでなかったのがよほど腹立たしかったのか、クロエは害意をあらわに襲って来た。
アルジェントも爪先に力を込め疾駆する。
今の彼は筋肉組織が変わり、脚の形もイヌ科のそれに変化している。
「嘘でしょ……よりにもよってあんたが!」
目の前でくり広げられる彼らの接近戦闘を、ククーシュカは呆然と見ていた。
(……トリアー神父が、百人殺し?)
クロエに続いて、アルジェントまでが人間ではなかった。
もはや思考がついていかない。
ふたりの戦いは速過ぎて、ククーシュカは目で追うのがせいいっぱいだった。
まるで、狼と小さなうさぎのようだ。
ただこのうさぎが、捕食対象でないことだけは確かだ。
丘に、激しい金属音が鳴り響く。
アルジェントが放つ連撃を、クロエは身を沈めては躱す。
剣が手応えを確信する前に、軌道上から少女は消える。
パワーはアルジェントのほうが上だが、スピードはクロエのほうが勝る。
その速さに、アルジェントはわずかな心当たりを感じた。
(まさか……)
しかし検証するひまはない。
クロエは、アルジェントの渾身の一撃をも小さな刃で迎え撃つ。
その比重の違いのためたたらを踏むも、すぐに身を立て直しあっという間に間合いの外へ。
腕の長さ、剣とナイフというリーチの差もものともしない速度は、ヒトの形を取っていても魔物としか言いようがない。
アルジェントの蹴りも薙ぎも、渾身の一撃も流され、ときには回し蹴りも襲ってくる。
それでも彼女は無傷ではない。
アルジェントは獣の爪を持っている。少女の負傷はみるみる増えてゆき、相手の死角に入るもその身を爪先が抉った。
クロエは至高の存在と自称しているが、あの体格では体力が続かないはずだ。
アルジェントと違って、強化されているわけではないのだから。
反撃のチャンスを与えられない以上、どう見ても競り負ける結果が見えている。
(なのにどうしてあんなに楽しそうなの)
怒りと喜悦が入り混じった顔で笑うクロエに、ククーシュカは胸騒ぎがした。
彼女は受け身を取り損ねても、ものともしない。
傷だらけでも、攻防のくり返しに疲労が見えない。
むしろ顔を強ばらせているのは、アルジェントのほうだった。
不審に感じているのか、獣脚で注意深く距離を取る。
しかしそれは、相手を少女と侮った距離だった。
警戒すれば、どうしても動きが遅れる。
クロエはその一瞬のすきを突いて、一刀をククーシュカへ放った。
「!」
回避は不可能──と思われたが、驚くべき瞬発力で地を蹴り、ナイフを跳ね返すアルジェント。
クロエは一気に距離をつめる。
瞬く間もなく一閃が交錯した。
クロエの指先が燕返しにひるがえり飛び退る。
反射的にアルジェントの剣も彼女の肩を裂いたが、クロエはなんのダメージも受けていない。
その代わり──
「トリアー神父!」
ひざを折ったアルジェントの腹に、クロエのナイフが深々と刺さっていた。
わき腹からはじくじくと銀毛に染みができている。
「百人殺しなんて、やっぱりただの神父じゃなかったわね」
クロエは嫌悪に満ちた顔で、アルジェントを見下ろした。
もう一本、凶器を隠し持っていたのだ。
「やめて、クロエ!」
「あなたが心臓をくれたらやめてあげる、って言ったら?」
(わたしの、心臓を?)
「バカなことは考えるな、ククーシュカ……」
アルジェントがよろよろと足を踏み出す。
一瞬、それでアルジェントが助かるなら、差し出してもいいと思った。
自分はあの戦火の中で、一度死んだも同然なのだから。
だがククーシュカはうつむいて、小声ながらもはっきりと言った。
「……あげません」
顔を上げ立ち上がる。
「あげません、何も。わたしは生きたいんです、トリアー神父のいるこの世界で」
こんな状況の中、少女は少しだけ笑顔だった。
月光に照らされ、輝いて見えた。
ふたりは驚いてククーシュカを見る。
クロエはそんなククーシュカがおもしろくなかったのか、落ちているアルジェントの剣を手にすると、切っ先を彼へ向けククーシュカを煽った。
「これでもくれないわけ?」
「……やめるんだ、栗毛」
腹を押さえ、アルジェントが苦しげに呻く。
「なによ、ここまで来て命乞いするつもり?」
「違う、そうではない」
「見苦しいわよ、観念なさい」
クロエは鼻で笑い、剣をふり上げる。
アルジェントは声をふり絞って叫んだが、
「違う、危険なのは──!」
その瞬間、ククーシュカの絶叫とともに、クロエは剣をその場に取り落とした。
「な……?」
躰が、何本もの黒い枝によって串刺しにされている。
荊棘──ブラックソーンが、ククーシュカの躰から生えていた。
ぽかんとしたクロエのくちびるから、胸から、血があふれ出す。
「どうし、て……?」
攻撃を放った本人は自覚がなかった。
ククーシュカはなすすべもなく、崩れるクロエを見つめる。
瀕死の状態でクロエは口もとをゆがめた。
「……トリアー神父、あたしは……いったいなんなのよ?」
「……お前は地上を彷徨う亡霊、『ダンター』だ。
ようやくわかった。ヘンルーダも、わたしの剣も効かぬはず」
アルジェントは、厳しくも哀憫をたたえた表情で伝えた。
「お前は、すでにこの世のモノではない」
「何を、言ってるの……?」
「毛織り物加工のギルドで、お前が欠勤したことを聞いた。おそらくその日、お前は司教に殺されたのだろう」
「……嘘よ、あたしはここにいる。ちゃんと生きてるわ」
「生きていれば、お前もいずれ司教と同じモノになっていた。だが、お前は彼女が邪魔だった。
同業者が同じ村にいれば獲物が減るからな。リリウムのことを教皇庁に密告したのはお前だ」
沈黙は肯定か、クロエは黙っていた。
「お前は司教を殺そうとして、逆にあの女の餌食となった。
百人殺しを誓い殺人を犯してきたお前は、信じたくなかったのだ、自分が死んだということに」
「違う、あたしは生きている!」
「証拠はあるのか」
「ここにこうして肉体が……!」
だが、ブラックソーンに割り開かれた自らの胸の中身に、クロエは目を見開いた。
そこには、木いちごがみっしりと埋まっていた。
「お前の心臓は司祭館の地下にある。司教のコレクションの最後の一つだ」
心臓のない足りない一体、見つからないはずだ。
遺体はこうして動き回っていたのだから。
「でも、ダンターはその地に留まる亡霊で……」
ククーシュカのつぶやきの答えは、そのままアルジェントがクロエに突きつけた。
「死を受け入れられなかったお前はダンターとなり、復讐という強い意志で遺体に憑いた」
「違う!」
「気づけ、己の身の冷たさに」
「違う! あたしは至高の存在で──!」
アルジェントにナイフを持ったまま飛びかかるクロエ。
だが、ククーシュカのさらなる荊棘に貫かれ、びくりと空中で固まった。
「……そして、ダンターは祓魔の力を持つククーシュカでなければ討てぬ」
「わ、わたし……!」
ククーシュカは意図せずあやつったブラックソーンをどうすることもできず、その場に立ち尽くした。
荊棘から伝う赤いしずくに、自分も呆然となる。
「……トリアー神父。あなた、初めからわたしのこと疎んでいたわね……疑っていたの?」
「お前からは、ずっとかすかに木いちごの香りがしていた。さっきまで確証はなかったがな」
「いやね……だからあんたってきらい」
クロエは毒づくと、ククーシュカを見て皮肉げな笑みを浮かべた。
「ふ、至高の存在はあなただったってわけ……」
そして、果実の香しい吐息を最期に静かにこと切れた。
自らが生やした荊棘も、とっくにもとにもどっていたククーシュカだが、
「トリアー神父!」
アルジェントが気を失わなければ、呆けたままだっただろう。声の限り、助けを呼んだ。
「誰か、誰か──!」
荊の茂みの向こうに、夕陽に照らされ赤く反射する栗色の髪がすでに見える。
ククーシュカが息を切らし丘へ上がると、クロエはおだやかな笑顔で言った。
「いいの、気にしないで。そうだと思った」
「え、あの……」
伝える前に、彼女は気づいたらしい。
ふいと後ろを向かれ、ククーシュカは申し訳なさそうにうつむく。
「……ごめんなさい、いっしょに行きたくないわけじゃないんです。お祭りにも誘ってくれてうれしかった」
「嘘ばっかり」
少女の声が一瞬低まって聞こえ、ククーシュカはぎくりとした。
だがクロエはすぐにふり返って、にっこりと笑う。
「ククーシュカったら、踊れないなんて嘘ばっかりね」
祝祭でダンスを見たのだろう。クロエは、少しだけ意地悪に口もとをゆがめた。
「ご、ごめんなさい」
それでも、本気で怒っているわけではなさそうだ。悪戯っぽく微笑む。
「あなたってここに来たときからそう。秘密がいっぱいなのね、興味があったわ」
(クロエは、ぼくよりきみに興味があるみたいなんだ)
コンティ伯の言葉が過ぎった。
ストレートに慕ってくれたヨルンドとは、また違う好意のようで緊張する。
「そんなに、あの神父がいいわけ?」
呆れたように肩をすくめるクロエ。
その質問にはどもったが、ククーシュカはためらいながらも言葉にした。
「トリアー神父、わたしに隠してることがあるみたいで、それを確かめるまでは教会にいたいんです」
「あなたが傷つく結果になっても?」
「はい。好きでいるのは自由だって思うんです」
「あなたって、バカねえ」
「はい」
ふっ切れたように笑うククーシュカを、クロエは真顔で見返した。
「……強くなったのね、ククーシュカ。おびえた小動物みたいなあなたが好きだったのに」
「え?」
「聖都へはひとりで行くわ。だから、餞別にあなたの──」
「逃げろククーシュカ!」
後方の声に思わずふり返る。
「そいつは──ケーレスだ!」
「!」
クロエの手から逆手に跳ね上がったナイフが、ククーシュカのひたいをかすった。
はらりとヴェールが落ち、長耳があらわになる。
こめかみを伝い落ちる赤いすじ。
突然のことにククーシュカは腰を抜かし、ぺたりとすわり込んだ。
血のついたナイフをクロエはぺろりとなめると、酩酊しているように恍惚とほおを染める。
「……これがエルフの血!」
「貴様、知っていたのか!」
抜剣するアルジェントは進路をふさがれた。
クロエはククーシュカにナイフを突きつけたまま、嘲笑する。
「彼女が村に来たときからね。エルフの躰は花のような香りがするのよ」
「道理で執拗につき纏ってたわけだ。ずっとこいつを狙ってたんだな」
「あら、本当に好きだったのよ。だから、どうしても心臓がほしいの」
「とんだメンヘラだな、反吐が出る」
アルジェントは、毒づきながらも注意深く間合いを取った。
クロエの後ろにいるククーシュカの安全を確認しながら。
「どうしてあたしだとわかったの?」
不服そうにクロエは訊いた。
「被害者の自宅や勤め先で関係者を洗っていき、トリーネの毛織り物工場でお前の家も聞いた──コンティ伯の別宅に住んでいたそうだな。
そこに彼の弓だけがあった。ヨルンドは自宅の方にあると言っていたぞ。鉄矢は使ったのだな、殺すために」
「あの男、あたしにぞっこんだから使ってやったけど、役立たずだったわ。甲冑まで装備したのに、あんたにあっさりやられちゃったし」
クロエは事もなげに肩をすぼめる。
「あの晩、わたしに石を飛ばしたのもお前か」
「ええ。あそこで正体がバレちゃ困るもの。彼にはまだまだ手伝ってもらうことがあったしね」
「コンティ伯に注意を集め、そのすきに自分は殺しを行う。あのときもそのつもりだったのだな……お前は初めから気にくわなかった!」
「それはこっちのセリフよ!」
嗤いながら地を蹴り、クロエは跳躍した。
無謀にも、ナイフ一本で長剣に挑もうというのか。
くり出すクロエの腕を取り、アルジェントは投げ飛ばす。
クロエは空中でそのまま躰をまるめると、くるると回転した。
着地した幹を蹴り、音よりも速くアルジェントの胸へ斬撃を突く。
「ふん……!」
剣で受けた刃先はこちらが攻めるより先に引き、また次の一刃が襲う。
重さはないが、コンティ伯とは比べものにならない速さだ。
何もできないククーシュカは、息を呑んで見守るしかなかった。
膂力もないはずのクロエの、どこにこんな力が充填されているのか。
リリウムとはタイプが違うが、明らかに人間から逸脱している。
アルジェントは取り出した小壜から、黄色の液体をクロエへ浴びせかけた。
「!」
一瞬ひるんだすきに掌打を食らわせ、剣を突きつける。
「ククーシュカは返してもらうぞ」
「ふ……それで先手を打ったつもり?」
(ヘンルーダが効かない?)
ククーシュカは青ざめた。
「ケーレスではないのか……お前はなんなのだ、栗毛!」
「さあね、あたしにもわからないわ。ただ、わかっているのは……」
──かつて、ある村に小さな家族がいた。
おひとよしの両親と、少しわがままなひとり娘。
ありふれた家庭のありふれた暮らしは、みんなが顔なじみの村では、どこも変わりがなかった。
目立った産業も特産物もないが、それでも満足して村人たちは平和におだやかに暮らしていた。
少女も、両親のようにいずれはここで誰かと結婚し、ずっとこの村で生きて行くのだと思っていた。
だがそんなどこにでもある日常は、異なる種族同士の騒乱の最中、唐突に終わりを告げた。
その日、クロエは家の庭に、怪我をしたエルフの少年がうずくまっているのを見つけた。
戦いから這々の体で逃げて来たのか、助けてくれと懇願され、クロエは哀れに思い両親に頼んでかくまうことにした。
簡単な応急処置を施し食事を与え、一晩だけ納屋に泊めてやった。
翌日、陽の上がる前に納屋へ行くと、中は誰もいなかった。
クロエは、あのエルフは仲間のもとに帰ったのだろうと安心した。
だが事件は起きた。
逃げる途中に見つかったのか、村人に攻撃されたから襲い返したのか。
少年のエルフは、納屋から持ち出していた武器で村人を刺した。
彼が持っていた革包丁から、すぐにローヴェル家が浮かび上がった。
クロエの父は、靴職人だったのだ。
納屋も調べられ、一泊させたことも村に知れわたった。
すんでのところで両親に逃がされ、村はずれの洞窟に隠れていたクロエは、翌日朝陽が登る前に家にもどり、エルフともども庭先の木に吊されている父母と対面した。
クロエの両親は談義の結果、裏切り者として処刑されたのだ。
昨日まで、笑いあっていた仲間に。
「信じられる? 敵のエルフじゃない、同じ人間の手で殺されたのよ」
「嘘です、レヴァンダのひとたちがそんなことするわけない!」
ククーシュカは声を荒げ訴えた。
「レヴァンダじゃない、あたしは別の村から来たのよ……小さな、箱庭みたいな村だった。凝り固まった価値観も正義も、ゴミ屑のようなね。もう、誰もいないけれど」
「どうして……誰もいないの」
尋ねるククーシュカに、伏目だったクロエの瞳はいきなり楽しげに見開いた。
「殺されたエルフの屍体をね、敵の陣地に放り込んだの。いい考えでしょう?」
煽るような宣戦布告。
ちっぽけな村にバカにされたと、相手はさぞ激憤しただろう。
村は、一日も経たず全滅した。
自ら血だらけになりながら、昂ってエルフを運ぶクロエを想像すると背筋が凍る。
だが自分も似た理由で両親を亡くしたククーシュカは、絶望の思いでクロエを責めた。
「でもなぜ? ここのひとたちは何もしていない。なぜ殺したのですか!」
クロエはうっとりとククーシュカを見つめる。
「神を呪うあたしに、囁く声が聞こえたの。魔に堕ちればいいと。
ねえ、知ってる? 百人殺せば妖力が手に入るって。
あたしは、どちらにも属さない至高の存在になったのよ!」
「愚かな……!」
呻くようなつぶやきがアルジェントの口からもれた。
「自ら獣に成り果てたのか……!」
が、その苦鳴はやがて唸りに変わった。
ガルル……
「し、神父さま……?」
怒りに裂けた口から牙が生える。
ふくれ上がった胸筋は僧服を破き、ふさふさとした白い胸毛が表れる。
みるみる躰をおおう髪と同じ銀の体毛、ぴんと跳ね上がった耳。
ククーシュカは、目の前で起きていることが信じられなかった。
クロエも愕然と動けずにいる。
「あ、あんた……!」
二本の脚で立ってはいるが、
(ワーウルフ!)
アルジェントは獣人──人狼の姿をしていた。
「百人殺しはお前だけではない、月下聖剣!」
「な──あああああっ!」
特別な力を授かったのが自分だけでなかったのがよほど腹立たしかったのか、クロエは害意をあらわに襲って来た。
アルジェントも爪先に力を込め疾駆する。
今の彼は筋肉組織が変わり、脚の形もイヌ科のそれに変化している。
「嘘でしょ……よりにもよってあんたが!」
目の前でくり広げられる彼らの接近戦闘を、ククーシュカは呆然と見ていた。
(……トリアー神父が、百人殺し?)
クロエに続いて、アルジェントまでが人間ではなかった。
もはや思考がついていかない。
ふたりの戦いは速過ぎて、ククーシュカは目で追うのがせいいっぱいだった。
まるで、狼と小さなうさぎのようだ。
ただこのうさぎが、捕食対象でないことだけは確かだ。
丘に、激しい金属音が鳴り響く。
アルジェントが放つ連撃を、クロエは身を沈めては躱す。
剣が手応えを確信する前に、軌道上から少女は消える。
パワーはアルジェントのほうが上だが、スピードはクロエのほうが勝る。
その速さに、アルジェントはわずかな心当たりを感じた。
(まさか……)
しかし検証するひまはない。
クロエは、アルジェントの渾身の一撃をも小さな刃で迎え撃つ。
その比重の違いのためたたらを踏むも、すぐに身を立て直しあっという間に間合いの外へ。
腕の長さ、剣とナイフというリーチの差もものともしない速度は、ヒトの形を取っていても魔物としか言いようがない。
アルジェントの蹴りも薙ぎも、渾身の一撃も流され、ときには回し蹴りも襲ってくる。
それでも彼女は無傷ではない。
アルジェントは獣の爪を持っている。少女の負傷はみるみる増えてゆき、相手の死角に入るもその身を爪先が抉った。
クロエは至高の存在と自称しているが、あの体格では体力が続かないはずだ。
アルジェントと違って、強化されているわけではないのだから。
反撃のチャンスを与えられない以上、どう見ても競り負ける結果が見えている。
(なのにどうしてあんなに楽しそうなの)
怒りと喜悦が入り混じった顔で笑うクロエに、ククーシュカは胸騒ぎがした。
彼女は受け身を取り損ねても、ものともしない。
傷だらけでも、攻防のくり返しに疲労が見えない。
むしろ顔を強ばらせているのは、アルジェントのほうだった。
不審に感じているのか、獣脚で注意深く距離を取る。
しかしそれは、相手を少女と侮った距離だった。
警戒すれば、どうしても動きが遅れる。
クロエはその一瞬のすきを突いて、一刀をククーシュカへ放った。
「!」
回避は不可能──と思われたが、驚くべき瞬発力で地を蹴り、ナイフを跳ね返すアルジェント。
クロエは一気に距離をつめる。
瞬く間もなく一閃が交錯した。
クロエの指先が燕返しにひるがえり飛び退る。
反射的にアルジェントの剣も彼女の肩を裂いたが、クロエはなんのダメージも受けていない。
その代わり──
「トリアー神父!」
ひざを折ったアルジェントの腹に、クロエのナイフが深々と刺さっていた。
わき腹からはじくじくと銀毛に染みができている。
「百人殺しなんて、やっぱりただの神父じゃなかったわね」
クロエは嫌悪に満ちた顔で、アルジェントを見下ろした。
もう一本、凶器を隠し持っていたのだ。
「やめて、クロエ!」
「あなたが心臓をくれたらやめてあげる、って言ったら?」
(わたしの、心臓を?)
「バカなことは考えるな、ククーシュカ……」
アルジェントがよろよろと足を踏み出す。
一瞬、それでアルジェントが助かるなら、差し出してもいいと思った。
自分はあの戦火の中で、一度死んだも同然なのだから。
だがククーシュカはうつむいて、小声ながらもはっきりと言った。
「……あげません」
顔を上げ立ち上がる。
「あげません、何も。わたしは生きたいんです、トリアー神父のいるこの世界で」
こんな状況の中、少女は少しだけ笑顔だった。
月光に照らされ、輝いて見えた。
ふたりは驚いてククーシュカを見る。
クロエはそんなククーシュカがおもしろくなかったのか、落ちているアルジェントの剣を手にすると、切っ先を彼へ向けククーシュカを煽った。
「これでもくれないわけ?」
「……やめるんだ、栗毛」
腹を押さえ、アルジェントが苦しげに呻く。
「なによ、ここまで来て命乞いするつもり?」
「違う、そうではない」
「見苦しいわよ、観念なさい」
クロエは鼻で笑い、剣をふり上げる。
アルジェントは声をふり絞って叫んだが、
「違う、危険なのは──!」
その瞬間、ククーシュカの絶叫とともに、クロエは剣をその場に取り落とした。
「な……?」
躰が、何本もの黒い枝によって串刺しにされている。
荊棘──ブラックソーンが、ククーシュカの躰から生えていた。
ぽかんとしたクロエのくちびるから、胸から、血があふれ出す。
「どうし、て……?」
攻撃を放った本人は自覚がなかった。
ククーシュカはなすすべもなく、崩れるクロエを見つめる。
瀕死の状態でクロエは口もとをゆがめた。
「……トリアー神父、あたしは……いったいなんなのよ?」
「……お前は地上を彷徨う亡霊、『ダンター』だ。
ようやくわかった。ヘンルーダも、わたしの剣も効かぬはず」
アルジェントは、厳しくも哀憫をたたえた表情で伝えた。
「お前は、すでにこの世のモノではない」
「何を、言ってるの……?」
「毛織り物加工のギルドで、お前が欠勤したことを聞いた。おそらくその日、お前は司教に殺されたのだろう」
「……嘘よ、あたしはここにいる。ちゃんと生きてるわ」
「生きていれば、お前もいずれ司教と同じモノになっていた。だが、お前は彼女が邪魔だった。
同業者が同じ村にいれば獲物が減るからな。リリウムのことを教皇庁に密告したのはお前だ」
沈黙は肯定か、クロエは黙っていた。
「お前は司教を殺そうとして、逆にあの女の餌食となった。
百人殺しを誓い殺人を犯してきたお前は、信じたくなかったのだ、自分が死んだということに」
「違う、あたしは生きている!」
「証拠はあるのか」
「ここにこうして肉体が……!」
だが、ブラックソーンに割り開かれた自らの胸の中身に、クロエは目を見開いた。
そこには、木いちごがみっしりと埋まっていた。
「お前の心臓は司祭館の地下にある。司教のコレクションの最後の一つだ」
心臓のない足りない一体、見つからないはずだ。
遺体はこうして動き回っていたのだから。
「でも、ダンターはその地に留まる亡霊で……」
ククーシュカのつぶやきの答えは、そのままアルジェントがクロエに突きつけた。
「死を受け入れられなかったお前はダンターとなり、復讐という強い意志で遺体に憑いた」
「違う!」
「気づけ、己の身の冷たさに」
「違う! あたしは至高の存在で──!」
アルジェントにナイフを持ったまま飛びかかるクロエ。
だが、ククーシュカのさらなる荊棘に貫かれ、びくりと空中で固まった。
「……そして、ダンターは祓魔の力を持つククーシュカでなければ討てぬ」
「わ、わたし……!」
ククーシュカは意図せずあやつったブラックソーンをどうすることもできず、その場に立ち尽くした。
荊棘から伝う赤いしずくに、自分も呆然となる。
「……トリアー神父。あなた、初めからわたしのこと疎んでいたわね……疑っていたの?」
「お前からは、ずっとかすかに木いちごの香りがしていた。さっきまで確証はなかったがな」
「いやね……だからあんたってきらい」
クロエは毒づくと、ククーシュカを見て皮肉げな笑みを浮かべた。
「ふ、至高の存在はあなただったってわけ……」
そして、果実の香しい吐息を最期に静かにこと切れた。
自らが生やした荊棘も、とっくにもとにもどっていたククーシュカだが、
「トリアー神父!」
アルジェントが気を失わなければ、呆けたままだっただろう。声の限り、助けを呼んだ。
「誰か、誰か──!」