大丈夫、浮気じゃないから。
「生葉先輩と大宮先輩って、本当に全然一緒にいないんですね」
お店を出た後、烏間先輩とも別れた後で、松隆が不意にそんな一言を漏らした。
「……そう?」
「家とかには来るんでしょうけど。大学では一緒にいるのを見かけないなと」
「まあ……学部違うし、サークルで仲良いメンバーも違うし」
「僕とは学部も学年も違うじゃないですか」
「そりゃ松隆は可愛い後輩ですから」
「はは、どうも」
「なに今の渇いた笑い声。馬鹿にしてるでしょ」
持っていた傘で松隆の足を叩くふりをした。
「まあ、ちょっと気になったもので」
「……気になったってなにが?」
「大宮先輩を見ていた生葉先輩の態度が?」
図星を指されて、口を噤むしかできなかった。なんで分かった、なんて言いたかったけれど「先輩、自分が思ってるより顔に出ますよ」と言われてしまえば何も言えない。
「まあ、僕が津川先輩を無理なだけかもしれませんけど、津川先輩と仲が良いっていうのは気にかかるものがありますよね」
「だよね!?」
思わず食い気味に返事をしてしまってから後悔した。松隆は「やっぱり」なんて笑うけれど、後輩に向かって彼氏の、しかもその後輩にとっては先輩にあたる相手の愚痴を言うなんて、先輩としてあるまじき行為だ。
「……ごめん聞かなかったことに」
「別にいいじゃないですか。大宮先輩にも津川先輩にも、というか誰にも言いませんよ」
「……そういう問題じゃないじゃん? 先輩として言うべきじゃないっていうか」
「先輩って、よく『○○であるべき』って言いますよね」
「……そう?」
そうだとして、いま何の関係が? 訝しめば「自覚がないのがそれっぽいです」と笑われた。
「すごく理性的ですよね。理性的に考えてどうあるべきかを模索して、そのあるべき姿から外れないように頑張ってる」
「……褒めてんの?」
「まあ、半分くらい?」貶してはないです、なんて言いながら「でもその“べきべき論”、あんまり言い聞かせないほうがいいんじゃないですか。自分が苦しくなるばっかりですよ」
……松隆は、後輩のくせに、こうして偉そうなことをいう。まるで自分のほうが人生の先輩のような、そんな口調だ。確かに大人びているとは思っていたけれど、こうして諭されると松隆のほうが年上のような気がしてくる。
「別に……、私だって潰れるほどべきべき論を言い聞かせたりしないし、適当にやってるよ。これでも結構楽観的なんだから」
「そうは見えないから言ってるんですけどね?」
見透かしたような口ぶりで、少し長い前髪の奥にある目が、私を試すように見下ろしてくる。
「ま、なにかあったら協力しますよ。生葉先輩は可愛い先輩ですから」
「……先輩に可愛いって言うな」
思えば、松隆が最初に“協力”を申し出たのは、あの日だった。
浮気は一体どこからか、なんてことに思考を費やしている場合ではなかったのだ。本当に考えるべき《・・》はそこではなかった。
おそらく、ささいな欲望から生じた思惑の中で、想定の範囲内の誤算ともいうべきこれまたささいな欲望が出てきて、そこに全く別の思惑が交錯してしまったのだろう。きっと、私達の関係は、その思惑に振り回されてしまっていて……それでいて、振り回される程度の関係でしかなかったのだ。
お店を出た後、烏間先輩とも別れた後で、松隆が不意にそんな一言を漏らした。
「……そう?」
「家とかには来るんでしょうけど。大学では一緒にいるのを見かけないなと」
「まあ……学部違うし、サークルで仲良いメンバーも違うし」
「僕とは学部も学年も違うじゃないですか」
「そりゃ松隆は可愛い後輩ですから」
「はは、どうも」
「なに今の渇いた笑い声。馬鹿にしてるでしょ」
持っていた傘で松隆の足を叩くふりをした。
「まあ、ちょっと気になったもので」
「……気になったってなにが?」
「大宮先輩を見ていた生葉先輩の態度が?」
図星を指されて、口を噤むしかできなかった。なんで分かった、なんて言いたかったけれど「先輩、自分が思ってるより顔に出ますよ」と言われてしまえば何も言えない。
「まあ、僕が津川先輩を無理なだけかもしれませんけど、津川先輩と仲が良いっていうのは気にかかるものがありますよね」
「だよね!?」
思わず食い気味に返事をしてしまってから後悔した。松隆は「やっぱり」なんて笑うけれど、後輩に向かって彼氏の、しかもその後輩にとっては先輩にあたる相手の愚痴を言うなんて、先輩としてあるまじき行為だ。
「……ごめん聞かなかったことに」
「別にいいじゃないですか。大宮先輩にも津川先輩にも、というか誰にも言いませんよ」
「……そういう問題じゃないじゃん? 先輩として言うべきじゃないっていうか」
「先輩って、よく『○○であるべき』って言いますよね」
「……そう?」
そうだとして、いま何の関係が? 訝しめば「自覚がないのがそれっぽいです」と笑われた。
「すごく理性的ですよね。理性的に考えてどうあるべきかを模索して、そのあるべき姿から外れないように頑張ってる」
「……褒めてんの?」
「まあ、半分くらい?」貶してはないです、なんて言いながら「でもその“べきべき論”、あんまり言い聞かせないほうがいいんじゃないですか。自分が苦しくなるばっかりですよ」
……松隆は、後輩のくせに、こうして偉そうなことをいう。まるで自分のほうが人生の先輩のような、そんな口調だ。確かに大人びているとは思っていたけれど、こうして諭されると松隆のほうが年上のような気がしてくる。
「別に……、私だって潰れるほどべきべき論を言い聞かせたりしないし、適当にやってるよ。これでも結構楽観的なんだから」
「そうは見えないから言ってるんですけどね?」
見透かしたような口ぶりで、少し長い前髪の奥にある目が、私を試すように見下ろしてくる。
「ま、なにかあったら協力しますよ。生葉先輩は可愛い先輩ですから」
「……先輩に可愛いって言うな」
思えば、松隆が最初に“協力”を申し出たのは、あの日だった。
浮気は一体どこからか、なんてことに思考を費やしている場合ではなかったのだ。本当に考えるべき《・・》はそこではなかった。
おそらく、ささいな欲望から生じた思惑の中で、想定の範囲内の誤算ともいうべきこれまたささいな欲望が出てきて、そこに全く別の思惑が交錯してしまったのだろう。きっと、私達の関係は、その思惑に振り回されてしまっていて……それでいて、振り回される程度の関係でしかなかったのだ。