大丈夫、浮気じゃないから。
 なんて(うそぶ)いて壁から背中を離そうとしたとき……、松隆の体の影が、私の体に覆いかぶさった。

 抱きしめられたわけではない。もちろんいわゆる壁ドンでもない。それどころか、体と体は触れ合ってなどいなかった。

 ただ、その瞬間の私達の距離は、ある一点を捉えればゼロだった。


「……大丈夫ですよ、先輩」


 その一点越しに感じたのは、ほんの少しの焦燥(しょうそう)。きっと、彼はいつもどおり余裕に振舞っていた。それなのに、いつもと違って、それが振る舞いに過ぎないと……ただ余裕そうに見せているに過ぎないのだと、気付いてしまった。

 私の背後に手をついていた松隆が、ゆっくりと離れた。


「飲み会でキスするくらいは、浮気じゃないから」


 なにが起こったか、理解していた。硬直していた唇が戦慄(わなな)いた。確かめるように唇に触れようとした手も、震えていた。

 ドン、と背中が壁にぶつかった。足に力を入れる方法が分からなくて、腰から崩れ落ちてしまいそうだった。

 のろのろと、彷徨うような目つきで松隆を見返したとき、髪の奥に隠れた目が、なにかの()に揺れた。


「……え」


 辛うじて、蚊の鳴くような声でただ一音だけを発した私を、松隆が静かに見下ろす。


「……なに……」

「なに、って。協力してって、言ったでしょ?」


 私にとっての茉莉が、紘にとっての松隆になるように。

 だからキスした。それ以上でもそれ以下でもない、そう告げる一言だった。

 でも紘がキスしてたのは茉莉じゃなくて沙那じゃん? ──同じことだ。私達の合意の根本は、紘の行為を弾劾(だんがい)することにあるのだから。たとえ相手が茉莉でなく沙那だとしても、「キスくらい」と開き直る可能性がある以上、同じことだ。

 それでも、同じじゃない。私がさっき見たキスと、いまのキスは、同じじゃない。


「……だって、これ……」


 でもそれは、私だけの事情だ。それを分かっていたから、続く言葉をぐっと飲み込んだ。

 ほんの少しの沈黙が落ちいたとき、スルッと、少し離れた襖が開いた音がした。まさか紘──なんて焦燥と恐怖の入り交じった感情で様子をうかがえば……、座敷のほうからやってきたのは烏間先輩だった。


「座敷の外で喋ったら迷惑だろ。中入りな」


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