大丈夫、浮気じゃないから。
「……ふらっと来た先輩にマリアージュフレールを出す男子大学生なんている?」

「お盆に帰省したときに実家にあったのを持ってきたんです。さすがに自分で買ったりなんかしません」松隆は苦笑して「コーヒーメーカーは1人分用しか持ってないですし、そもそも多人数用のコーヒーメーカーなんて邪魔だしで、お茶を出すってなると紅茶を用意しておくほうが気楽なんです」


 理由は分からなくもないけれど、そもそも論として、大学生が一人暮らしの部屋でお茶を出すことなんて想定しているものだろうか。少なくとも私は想定していない。もしうちに烏間先輩がアポなしで来たら、私は水道水を出すことしかできないだろう。


「松隆って時々ブルジョワみたいな発想持ってるよね」

「じゃあ、これはさながらノブレスオブリージュですかね」

「病人にさえ施しを受ける私と烏間先輩、やばくない?」


 松隆の部屋には電気ケトルはなく、インテリアの一部にでもなりそうな小ぶりのケトルがある。コンロに乗ったままのそれを手に取り、お湯を沸かす準備をしようとしたとき。


「ちょっとすみません」 

 不意に、松隆の左手が私の左手の隣に並び、ハーブのような柔らかい香りが鼻孔をくすぐった。更に、私の背中に触れないよう気を付けながらも、どうしようもなく触れそうなほどに体が近づく、そんな気配を背中に感じて思わずドキリとした。

 私の背後から、松隆がキッチンの上の棚に右手を伸ばしたのだ。

 そのまま、私の頭上をこえて伸びた手が、私と松隆の身長差を教える。固まってしまった私の視線の先にあるのは、並んだ2つの左手。一見して男女であることが分かるほど、その大きさは違っていた。

 その左手がすっと引っ込められる。同時に背中から松隆の気配も離れた。振り向くと、松隆はいつものなんでもない表情で片手にポットを持っている。


「……なんですか?」

「……いや、なんでも」


 慌ててシンク側に顔を向けた。ドキドキと、さっきの一瞬のときめきの余韻が残っている。……そうだ、ときめきだ。一瞬自問しかけたけれど、さっきの感覚の正体なんて自明だった。


「先輩?」


 松隆は後輩で、そんな対象に見ることなんてないと笑い飛ばしていたのに、矛盾した自分の感覚を嗤ってしまいたくなった──そんな余裕はないけれど。

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