大丈夫、浮気じゃないから。
 ふん、と鼻で笑われ、ぞわっと背筋に寒気が走った。確かに、先輩に向かって (しかもサークル内に彼氏がいるのに)浮気を(そそのか)すなんて、優しさもなにもない。そうなると、優しくされているわけではないから疑いの余地は──納得しかけて首を振った──あるに決まってる。騙されかけた。


「じゃあ一体……やっぱり私と紘を別れさせて紘に嫌がらせを……!」

「それは考えたことがありませんでした。そんなことを思いつくなんて、先輩のほうがよっぽど腹黒いですね」

「このっ……!」


 言い返そうとしたけれど、コートに着いてしまったのでその話を続けることはできなかった。なんなら、更衣室にカバンを置いたとき、カバンの中に一冊の文庫本を入れたままだったことに気付いて、さっきまでの松隆との遣り取りは頭の中からすっぽり抜け落ちた。


「松隆、そういえば『Good bye my…』だけどさ」


 更衣室を出た後、コートの手前で準備運動をしている松隆の隣に並んだ。


「ああ、どうでした?」

「いやー、それがすっかり忘れてて。カバンに入れっぱなしだった、ごめん。まだ読んでないから今度返すねってことだけ言っとこうと思って」

「ああ、全然いいですよ。僕はもう読み終わってるわけですし」


 本当に気にしてなさそうに手を横に振る。


「ただ、今日、金ローでやるんですよ、『Good bye my…』の映画」

「あー、そっか、そういえばそんな話もしたね」


 原作のほうがいいのでって言われてたな……。9時までとなれば、テニスではなく読書の日ということにすれば読み終えることは可能だけれど、そこまでする必要はないし、そもそも急いで文庫本を読み進めるのは性に合わないので、映画より先に原作を読むのは諦めたほうがよさそうだ。


「残念。ごめん、せっかく言ってくれたのに」

「いいえ、全然。映画見た後の原作でもいいと思いますし。『Good bye my…』のタイトルの意味は本のほうが分かりやすいかもしれませんけどね」

「え、今日『Good bye my…』の映画やるの?」


 茉莉の声に振り向けば、ちょっと天然の茉莉らしく、驚いた表情で仁王立(におうだ)ちをしている。美少女がやれば仁王立ちも可愛くてなんだか笑ってしまった。こういうところだ、茉莉の憎めないところは。


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