酔った勢いで契約したレンタルダーリンと期間限定の夫婦生活始めます!
第五話 レンタルダーリン桐生葵に頬を唇ですりすりされた
今、葵さんはなんて言った?
「俺、その……実は――……元ヤンキーなんだ」って言ったよね?
この、優しくて甘やかで好青年な彼の過去が? ヤンキー?
「はあああ!?」
今度はおなかの底から声が出た。あまりの声量に葵さんがびくっと跳ねている。彼の両頬をがしっと掴んで、顔を近づけた私は改めて確認を取った。
「あなた、ほんとに、元ヤンキー? デスカ?」
なぜか片言になってしまったのは許してほしい。それくらい動揺している。葵さんはこくこくと頷いて、私の両手に自分の両手を重ねた。
「本当だよ。これでも昔は結構、その……やんちゃしていて」
「うっそだぁ!」
「嘘じゃない。あ、そうだ。写真を見る?」
見せてくれるというなら見せてもらおうじゃないか。葵さんがポケットからスマホを取り出すのをどきどきしながら見守る。彼が画面をタップして写真を表示させた。そして、私の目の前に差し出す。
写っているのは葵さんだ。今より顔つきが少し幼い。でも明らかに今と違う部分がある。黒い髪が金色に染まっていて、見えている左耳だけでも三つのピアスがついている。……それに、一番インパクトが強いのは葵さんの足元に転がる男性たち。一人の男性なんて葵さんに足蹴にされている。みんなボロボロというかボコボコで。今まさに輩たちを倒しましたという場面を切り取った一枚だった。戦闘後だからか黒い瞳はぎらついていて、写真を撮った相手のスマホを睨みつけている。画面越しに私が睨まれている感覚になってちょっとびびってしまった。こ、こわい。
「こ、このあと写真を撮った相手もボコボコ?」
「ああ、これは友人が撮ったんだ。撮られてるってこのあと気付いてちょっと照れくさかったなぁ」
なんだそれ。絶対に友人もやんちゃな人だ。
葵さんは昔に結構やんちゃしていた元ヤンキーだったから、通り魔に対して挑発するような態度をついとってしまったってことか。だとすると、そこからどうなってレンタルダーリンなんて職に就いたんだろう。やんちゃしていたけど、昔から今と変わらない雰囲気だったのかな? だめだ、全然過去が想像できない。
葵さんの右手が私の頬に伸ばされる。触れられそうになったところでほんのちょっとだけ肩が跳ねてしまった。彼はゆっくりまばたきをすると、頬に触れることなく右手を下ろした。
「さっきは怖がらせてしまってごめんね。でも、今はもう昔みたいなことは一切していなかったんだ。それは信じてほしい」
「う、うん。それは、信じるけど……」
「ありがとう。――もしかしたら君は、もう俺との共同生活なんて嫌だって思っちゃったかもしれないけど、できればこのままレンタル期間が終わるまでは、君の旦那さんでいさせてほしい」
一度目を伏せた葵さんは、その黒色をまっすぐに私に向けた。感情がほわほわとしちゃうほどの柔らかさと、どこか寂しさを孕んだ眼差しに、心臓がきゅうっと痛くなる。
「俺は、君との生活をまだ続けていたい。一緒にここで過ごし始めて二日目だけど、君と一緒にいると本当に楽しいんだ。もっと触れ合いたいし、話したいし、君のことを知っていきたい。だめ、かな?」
少し首を傾げて、窺うようにそんな風に言われてしまったらチョロい私の答えは決まっている。だって、本音を言うと私も葵さんと一緒に過ごして楽しいなって思っていたからだ。というか、葵さんが通り魔と戦ったときだって、そのあと家に帰ってきてからだって、葵さんとの契約を破棄しようなんて考えは私の中に一切なかった。
「私も、葵さんと一緒にいると楽しいし、新鮮だし、ドキドキわくわくするから……まだまだ葵さんと一緒にいたいって思って、る。契約を破棄したいなって思ったことは、一度もないよ」
葵さんは瞳を真ん丸に見開いた。私の返事が予想外だったんだろう。まばたきを繰り返した彼は、ゆっくり私に両腕を伸ばす。もう少しで触れる、というところで急に勢いを増してがばりと抱きしめてきた。そのままベッドに一緒に倒れこんだものだから今度は私がぱちぱちとまばたきをする番だ。葵さんはそのまま私の頬を唇ですりすりと撫でる。そのあと、ちゅうとほっぺたが軽く凹むくらいのキスを貰った。
「ありがとう」
深く噛みしめたような言い方の、吐息交じりの言葉。耳のすぐ傍で囁かれたそれに体の芯が甘く痺れる。ハグと唇で頬をすりすりされたことと、しっかりとしたほっぺキス。そしてとどめの囁き。
あ。
と思った。何が「あ」だって? 落ちてしまったって自覚したからだ。私はこんなにもチョロい奴だったのか。出会ってまだ三日目。しかも突然共同生活をすることになったレンタルダーリンという職の男性に、たった今ころりと恋に落ちてしまったのだ。確実に音が聞こえた。落ちる瞬間のきっかけってどこに転がっていて突然襲い掛かってくるのかわからないんだなと若干頭がパニックになっている。
え、どうしよう。本当にどうしよう。これ、後戻りできない感情だ。
気付けば葵さんの背中に遠慮気味に回していた手。そして指先で彼の服をツンツンと引く。
「葵さん」
「ん、なあに?」
「好きです」
ぼぼっと燃え上がった恋の炎の勢いは止まらず、無意識に零していたのは告白の言葉だった。伝えてから、何を言っているんだとハッとする。でも一度吐き出した言葉は取り消すことができない。葵さんは私の頬にすりすりと唇を触れさせて撫でていたところだったけど、一瞬動きを止める。
そして、簡単に言うのだ。
「うん、俺も君が好きだよ」
心からの言葉に聞こえてしまったのは私の都合の良い解釈だ。葵さんはレンタルダーリンで、この生活は期間限定で。
きっと葵さんは今まで相手をした仮の奥さんに対しても優しく甘やかに接して、愛を囁いているはずだ。私と同じように彼に本気で恋をしてしまった人だって絶対にいただろう。彼の吐き出す言葉も、私に対して施してくれる行動も、どこからが本当でどこからが仮初なのかも、彼の心の奥を確かめるすべはない。
ああ、もう。本当にどうしよう。
泣きたくなるくらい苦しくなっていると、突然空腹を訴え始める私のおなか。くるるるるなんて音が鳴った途端に恥ずかしくなった。葵さんはハッとして、勢いよく私から離れた。そういえば、朝ごはん、まだ食べていなかった。
「おなか空いちゃったよね。ごめんね。すぐ用意するからダイニングに行こうか」
「うん。ねえ、葵さん。朝ごはん一緒に作っても良い? 色々教えてほしいな。私もお料理上手になりたい!」
「もちろん。嬉しいなぁ。君と一緒にお料理ができるなんて」
葵さんに手を引かれてキッチンに向かって、今から何を作るか簡単に説明してくれている彼の横顔を見つめて決意を固める。
相手がレンタルダーリンだからと割り切って諦められるほど私の気持ちは脆くない。むしろ脆くあってたまるか。恋の炎はめらめらと燃え始めたばかりだ。これからどんどん火柱が大きくなること間違いなし。だったら葵さんを落とす覚悟でぶつかってやる。
こんな風に思える相手に出会えたのは生まれて初めてだ。今までは誰かに一方的な恋をしても胸に秘めるだけで自分から告白なんてしなかった。そんな私が無意識に、気づいたら「好きです」って伝えてしまったのだ。それくらい、深いところまでどっぷりと恋に落ちていると言うことだ。
「あ、ちょっと待ってね。えーと、ここに……」
そう言って彼がキッチンの引き出しの中から取り出したのは新品のエプロンだった。パステルブルーの綺麗な色味をしている。葵さんがエプロンを広げ、私の正面から抱きしめるようにしてエプロンを装着してくれている。そのときに香った彼のにおいにくらくらしてしまって、両手で顔を抑えて変な声が漏れてしまった。
「んぐぅむッ」
「ふ、はは。面白い声が出たね」
「だ、だって」
思いっきりどもった私を見て葵さんが声を出して笑う。そして、私の額にちゅっとキスを一つ落としていった。
「うん、可愛い。エプロン、似合ってるよ」
「ひ、やめてえええええ」
あまりの不意打ちに後退って大きくリアクションすると葵さんがおなかを抱えて笑う。あ、今また悪戯をしかけてきたな! 私のリアクションを見て楽しんでいる!
「耳も顔も真っ赤だね。可愛い」
「あ、あっ、もうやめて! そう、そうだ! お料理しよう! お料理!」
このままだと顔も体も熱くなりすぎて蒸発してしまう。葵さんを落としてやるぞって意気込んでいたのに反対に全力で落とされている。葵さんはそんなつもりないだろうけど……。これは心臓に悪い。
「うん、そうだね。お料理を始めようか」
葵さんの隣に近づいて、一緒にキッチンに並んで気合を入れた。
葵さんから紡がれる心地の良い声の指示のもと朝ごはんを一緒に作る。包丁の持ち方はもう少しこうした方が良いよ、とか。食材の扱い方。調味料の量。火の入れ方。葵さんが築き上げたお料理の知識を丁寧に教えてくれる。
触れ方も語り掛け方も全部、最愛の奥さんに対してする接し方をしてくれる。
出来上がったお料理を前に二人でハイタッチして微笑み合って、ダイニングテーブルのイスに座って一緒に食事をする。他愛ない話をしながら穏やかな時間を過ごす私たちは、期間限定の仮初の夫婦だ。
でも私は、彼との関係を仮初にはしたくない。ちゃんと、気持ちを伝えていかなくては。
ごはんを食べ終わって、二人で洗い物をしているときにはっきりと告げた。それこそ会話の流れも何もない、本当に突然伝えた。
「葵さん、好きです」
「はは、もう。びっくりした。俺も君が好きだよ」
「本当に?」
「もちろん。ん、キスしようか」
少しだけ背を丸めて私に顔を寄せた葵さんの行動に照れくささがマックスになって反射的に身を引いてしまった。
「だ、だめ!」
「もう、まだダメなの? 俺はしたいな」
「ど、どうか! どうかここだけはご勘弁を! 爆散してしまうのでどうか!」
「ふ、あはは。そんな必死に……っ、君は本当にリアクションがいいね」
「だ、だって。指で触られただけで溶けたと思ったのに、キスなんてされたらどうなるか」
私の言葉に葵さんはとろりと瞳を甘くすると、私の顔に鼻先を近づけて微笑んだ。彼の纏う空気が艶を増して、その色香に思わず呼吸を止めてしまった。
「さあ、どうなっちゃうんだろうね。試してみようか」
すぱぁん! なんて音を立てて私は自分のほっぺたを両方から包むようにたたいた。まさかの私の行動に葵さんがびっくりして固まっている。
「な、何を?」
「今、気を失いそうになったから自分の意識を引き留めるためにたたいた」
あまりにもときめきと甘さの衝撃が強すぎて魂が飛んでいきかけた。
葵さんが「ぐ」と息を詰めて私から顔を反らす。ぷるぷると震えながら笑っている。
あ、待って。なんていう意味不明な行動をしたんだ私は。
「俺、今日はたくさん笑っている気がする。――君のそういうところ大好きだ」
無邪気に笑って言った葵さんに、またころりとやられた。
果たして、私は葵さんを落とすことができるんだろうか。
「俺、その……実は――……元ヤンキーなんだ」って言ったよね?
この、優しくて甘やかで好青年な彼の過去が? ヤンキー?
「はあああ!?」
今度はおなかの底から声が出た。あまりの声量に葵さんがびくっと跳ねている。彼の両頬をがしっと掴んで、顔を近づけた私は改めて確認を取った。
「あなた、ほんとに、元ヤンキー? デスカ?」
なぜか片言になってしまったのは許してほしい。それくらい動揺している。葵さんはこくこくと頷いて、私の両手に自分の両手を重ねた。
「本当だよ。これでも昔は結構、その……やんちゃしていて」
「うっそだぁ!」
「嘘じゃない。あ、そうだ。写真を見る?」
見せてくれるというなら見せてもらおうじゃないか。葵さんがポケットからスマホを取り出すのをどきどきしながら見守る。彼が画面をタップして写真を表示させた。そして、私の目の前に差し出す。
写っているのは葵さんだ。今より顔つきが少し幼い。でも明らかに今と違う部分がある。黒い髪が金色に染まっていて、見えている左耳だけでも三つのピアスがついている。……それに、一番インパクトが強いのは葵さんの足元に転がる男性たち。一人の男性なんて葵さんに足蹴にされている。みんなボロボロというかボコボコで。今まさに輩たちを倒しましたという場面を切り取った一枚だった。戦闘後だからか黒い瞳はぎらついていて、写真を撮った相手のスマホを睨みつけている。画面越しに私が睨まれている感覚になってちょっとびびってしまった。こ、こわい。
「こ、このあと写真を撮った相手もボコボコ?」
「ああ、これは友人が撮ったんだ。撮られてるってこのあと気付いてちょっと照れくさかったなぁ」
なんだそれ。絶対に友人もやんちゃな人だ。
葵さんは昔に結構やんちゃしていた元ヤンキーだったから、通り魔に対して挑発するような態度をついとってしまったってことか。だとすると、そこからどうなってレンタルダーリンなんて職に就いたんだろう。やんちゃしていたけど、昔から今と変わらない雰囲気だったのかな? だめだ、全然過去が想像できない。
葵さんの右手が私の頬に伸ばされる。触れられそうになったところでほんのちょっとだけ肩が跳ねてしまった。彼はゆっくりまばたきをすると、頬に触れることなく右手を下ろした。
「さっきは怖がらせてしまってごめんね。でも、今はもう昔みたいなことは一切していなかったんだ。それは信じてほしい」
「う、うん。それは、信じるけど……」
「ありがとう。――もしかしたら君は、もう俺との共同生活なんて嫌だって思っちゃったかもしれないけど、できればこのままレンタル期間が終わるまでは、君の旦那さんでいさせてほしい」
一度目を伏せた葵さんは、その黒色をまっすぐに私に向けた。感情がほわほわとしちゃうほどの柔らかさと、どこか寂しさを孕んだ眼差しに、心臓がきゅうっと痛くなる。
「俺は、君との生活をまだ続けていたい。一緒にここで過ごし始めて二日目だけど、君と一緒にいると本当に楽しいんだ。もっと触れ合いたいし、話したいし、君のことを知っていきたい。だめ、かな?」
少し首を傾げて、窺うようにそんな風に言われてしまったらチョロい私の答えは決まっている。だって、本音を言うと私も葵さんと一緒に過ごして楽しいなって思っていたからだ。というか、葵さんが通り魔と戦ったときだって、そのあと家に帰ってきてからだって、葵さんとの契約を破棄しようなんて考えは私の中に一切なかった。
「私も、葵さんと一緒にいると楽しいし、新鮮だし、ドキドキわくわくするから……まだまだ葵さんと一緒にいたいって思って、る。契約を破棄したいなって思ったことは、一度もないよ」
葵さんは瞳を真ん丸に見開いた。私の返事が予想外だったんだろう。まばたきを繰り返した彼は、ゆっくり私に両腕を伸ばす。もう少しで触れる、というところで急に勢いを増してがばりと抱きしめてきた。そのままベッドに一緒に倒れこんだものだから今度は私がぱちぱちとまばたきをする番だ。葵さんはそのまま私の頬を唇ですりすりと撫でる。そのあと、ちゅうとほっぺたが軽く凹むくらいのキスを貰った。
「ありがとう」
深く噛みしめたような言い方の、吐息交じりの言葉。耳のすぐ傍で囁かれたそれに体の芯が甘く痺れる。ハグと唇で頬をすりすりされたことと、しっかりとしたほっぺキス。そしてとどめの囁き。
あ。
と思った。何が「あ」だって? 落ちてしまったって自覚したからだ。私はこんなにもチョロい奴だったのか。出会ってまだ三日目。しかも突然共同生活をすることになったレンタルダーリンという職の男性に、たった今ころりと恋に落ちてしまったのだ。確実に音が聞こえた。落ちる瞬間のきっかけってどこに転がっていて突然襲い掛かってくるのかわからないんだなと若干頭がパニックになっている。
え、どうしよう。本当にどうしよう。これ、後戻りできない感情だ。
気付けば葵さんの背中に遠慮気味に回していた手。そして指先で彼の服をツンツンと引く。
「葵さん」
「ん、なあに?」
「好きです」
ぼぼっと燃え上がった恋の炎の勢いは止まらず、無意識に零していたのは告白の言葉だった。伝えてから、何を言っているんだとハッとする。でも一度吐き出した言葉は取り消すことができない。葵さんは私の頬にすりすりと唇を触れさせて撫でていたところだったけど、一瞬動きを止める。
そして、簡単に言うのだ。
「うん、俺も君が好きだよ」
心からの言葉に聞こえてしまったのは私の都合の良い解釈だ。葵さんはレンタルダーリンで、この生活は期間限定で。
きっと葵さんは今まで相手をした仮の奥さんに対しても優しく甘やかに接して、愛を囁いているはずだ。私と同じように彼に本気で恋をしてしまった人だって絶対にいただろう。彼の吐き出す言葉も、私に対して施してくれる行動も、どこからが本当でどこからが仮初なのかも、彼の心の奥を確かめるすべはない。
ああ、もう。本当にどうしよう。
泣きたくなるくらい苦しくなっていると、突然空腹を訴え始める私のおなか。くるるるるなんて音が鳴った途端に恥ずかしくなった。葵さんはハッとして、勢いよく私から離れた。そういえば、朝ごはん、まだ食べていなかった。
「おなか空いちゃったよね。ごめんね。すぐ用意するからダイニングに行こうか」
「うん。ねえ、葵さん。朝ごはん一緒に作っても良い? 色々教えてほしいな。私もお料理上手になりたい!」
「もちろん。嬉しいなぁ。君と一緒にお料理ができるなんて」
葵さんに手を引かれてキッチンに向かって、今から何を作るか簡単に説明してくれている彼の横顔を見つめて決意を固める。
相手がレンタルダーリンだからと割り切って諦められるほど私の気持ちは脆くない。むしろ脆くあってたまるか。恋の炎はめらめらと燃え始めたばかりだ。これからどんどん火柱が大きくなること間違いなし。だったら葵さんを落とす覚悟でぶつかってやる。
こんな風に思える相手に出会えたのは生まれて初めてだ。今までは誰かに一方的な恋をしても胸に秘めるだけで自分から告白なんてしなかった。そんな私が無意識に、気づいたら「好きです」って伝えてしまったのだ。それくらい、深いところまでどっぷりと恋に落ちていると言うことだ。
「あ、ちょっと待ってね。えーと、ここに……」
そう言って彼がキッチンの引き出しの中から取り出したのは新品のエプロンだった。パステルブルーの綺麗な色味をしている。葵さんがエプロンを広げ、私の正面から抱きしめるようにしてエプロンを装着してくれている。そのときに香った彼のにおいにくらくらしてしまって、両手で顔を抑えて変な声が漏れてしまった。
「んぐぅむッ」
「ふ、はは。面白い声が出たね」
「だ、だって」
思いっきりどもった私を見て葵さんが声を出して笑う。そして、私の額にちゅっとキスを一つ落としていった。
「うん、可愛い。エプロン、似合ってるよ」
「ひ、やめてえええええ」
あまりの不意打ちに後退って大きくリアクションすると葵さんがおなかを抱えて笑う。あ、今また悪戯をしかけてきたな! 私のリアクションを見て楽しんでいる!
「耳も顔も真っ赤だね。可愛い」
「あ、あっ、もうやめて! そう、そうだ! お料理しよう! お料理!」
このままだと顔も体も熱くなりすぎて蒸発してしまう。葵さんを落としてやるぞって意気込んでいたのに反対に全力で落とされている。葵さんはそんなつもりないだろうけど……。これは心臓に悪い。
「うん、そうだね。お料理を始めようか」
葵さんの隣に近づいて、一緒にキッチンに並んで気合を入れた。
葵さんから紡がれる心地の良い声の指示のもと朝ごはんを一緒に作る。包丁の持ち方はもう少しこうした方が良いよ、とか。食材の扱い方。調味料の量。火の入れ方。葵さんが築き上げたお料理の知識を丁寧に教えてくれる。
触れ方も語り掛け方も全部、最愛の奥さんに対してする接し方をしてくれる。
出来上がったお料理を前に二人でハイタッチして微笑み合って、ダイニングテーブルのイスに座って一緒に食事をする。他愛ない話をしながら穏やかな時間を過ごす私たちは、期間限定の仮初の夫婦だ。
でも私は、彼との関係を仮初にはしたくない。ちゃんと、気持ちを伝えていかなくては。
ごはんを食べ終わって、二人で洗い物をしているときにはっきりと告げた。それこそ会話の流れも何もない、本当に突然伝えた。
「葵さん、好きです」
「はは、もう。びっくりした。俺も君が好きだよ」
「本当に?」
「もちろん。ん、キスしようか」
少しだけ背を丸めて私に顔を寄せた葵さんの行動に照れくささがマックスになって反射的に身を引いてしまった。
「だ、だめ!」
「もう、まだダメなの? 俺はしたいな」
「ど、どうか! どうかここだけはご勘弁を! 爆散してしまうのでどうか!」
「ふ、あはは。そんな必死に……っ、君は本当にリアクションがいいね」
「だ、だって。指で触られただけで溶けたと思ったのに、キスなんてされたらどうなるか」
私の言葉に葵さんはとろりと瞳を甘くすると、私の顔に鼻先を近づけて微笑んだ。彼の纏う空気が艶を増して、その色香に思わず呼吸を止めてしまった。
「さあ、どうなっちゃうんだろうね。試してみようか」
すぱぁん! なんて音を立てて私は自分のほっぺたを両方から包むようにたたいた。まさかの私の行動に葵さんがびっくりして固まっている。
「な、何を?」
「今、気を失いそうになったから自分の意識を引き留めるためにたたいた」
あまりにもときめきと甘さの衝撃が強すぎて魂が飛んでいきかけた。
葵さんが「ぐ」と息を詰めて私から顔を反らす。ぷるぷると震えながら笑っている。
あ、待って。なんていう意味不明な行動をしたんだ私は。
「俺、今日はたくさん笑っている気がする。――君のそういうところ大好きだ」
無邪気に笑って言った葵さんに、またころりとやられた。
果たして、私は葵さんを落とすことができるんだろうか。