酔った勢いで契約したレンタルダーリンと期間限定の夫婦生活始めます!
第八話 レンタルダーリン桐生葵とキスコールをする悪魔
起きた。たった今、私は起きた。
季節は冬。部屋は暖房であたたかく、ベッドの中も二人分の体温でぬくぬくだ。二人分の体温――つまり、私の隣には葵さんが寝ているわけだけど……彼はまだ眠っている。そう、眠っているんだ。とっても綺麗な寝顔が私の目の前にある。
睫毛が長い。肌が白い、綺麗。女の私が負けている気がする。鼻梁も高い。唇も美しい色をしていて、眠っているから無防備に少し開いているそこがなんともセクシーで。
葵さんは、朝にいつも「おはようのキス」をしようとしてくる。私はいつもそれを受け止められずに必死に抵抗している。彼も無理やりキスなんてしないで「じゃあ今日もここにね」って額におはようのキスをくれるんだけど……。
この唇にキス、したら……きっと、幸せになれる、気がする。私が。私がね。重要なことだからもう一回言う。ここにキスしたら自己満足で私が幸せになれる。
葵さんの意識が夢の世界にあるから、今、こっそり……ちゅってしても気づかれないよね?
私の視線は葵さんの唇にくぎ付けだ。ごくりと喉が鳴ってしまう。
ちょっとだけ、ちゅって、しても、いい……かな。
そんな邪な考えがよぎった瞬間、頭の中で天使と悪魔が戦争を始めた。

「だめよ! そんな! 相手の意識が無いときにキスをしちゃうなんて!」
「かまうもんかよ! 相手もキスしようとしてたんだからやっちまえ!」

なんて、ぽかすか殴り合っている。
きゅうっと唇を引き結んだ私は、頭の中の天使と悪魔の戦争を見守りながら、ゆっくり、葵さんの顔に自分の鼻先を近づけていく。

「だめよ! 早まっちゃダメ! 自分の欲望を優先してはダメよ!」
「いけいけー! 軽くちゅってするだけだ!」

頭の中の天使と悪魔がうるさい。でも身体が行動に移ってしまっているものだから、悪魔の方が優勢である。悪魔が頭の中でキスコールを始めた。

「きっす! きっす! きっす!」

――あ、葵さん。ごめんなさい!
ぎゅうっと目を閉じて、彼の鼻先に私の鼻先が触れ――……る、寸前にこらえきれなくなって勢いよく身体を起こしたあと自分の分の枕に顔面を、ばふん! と、うずめた。

「う、うぅぅぅ……!」

だめだ! できない! 恥ずかしくてできない! そんな、葵さんと唇でちゅうだなんて……! ただでさえ身体のどこかにキスされるだけでそこが爆発したみたいに熱くなるのに! もっとすごいことをしてるけど、それはそれで唇同士のキスはまた意味が違うというか!
ベッドの上で一人、最低限の動きで悶え苦しんでいると突然誰かに肩を押された。
誰かって、一人しかいない。葵さんだ。
え。なんて声を上げる間もなく、葵さんに押し倒された。目の前には黒色の瞳をとろとろに甘くして艶を含んで微笑んだ葵さんの、姿が、あって。

「おはようのキス、してくれる気になったかい?」

葵さんの親指が私の唇に触れて、ふにりと柔らかさを確かめる。もうパニックだった。彼はいつから起きていたのか。どのタイミングで。どこまで私の行動を見ていたのか。

「い、いいい、いつお、お起きて」
「さあ、いつだろうね」
「あ、あの距離が、近」
「近づけてるからね」
「あ、ああああの」
「おはようの、キス。しようか」
「ううぅぅ」

こっそりキスをしようとしていたこととか、葵さんがこんなにも近い距離にいることとか、彼が上半身裸で寝ていたこととか、低くて甘い声で囁いてくることとか色々混ざってパニックだ。
ゆっくり、ゆっくり顔が近づいて、鼻先が触れ合って、吐息がかかる距離。唇があと数ミリで触れ合う。
葵さんのことが好きすぎてどうしようもない自分の気持ちが溢れてしまう。葵さんがこんな風に接してくれるのは私が彼と契約をしたからだとか、どうがんばってもレンタルダーリンと契約者の壁は破れないんだろうなって、頭の中に別の悪魔の囁きが聞こえてきて、感情がぐるぐるして涙が浮かんできた。
そのとき葵さんの動きがぴたりと止まって、黒色をまばたきでゆっくり隠すと、ふっと鼻から吐息を抜くように笑った。

「もう、泣かないで。ごめんね、からかいすぎちゃったね」

よしよしと頭を撫でてくれる葵さんの手つきはどこまでも優しい。変な気を使わせてしまったかもしれない。手の甲で慌ててごしごしと涙を拭って、まるで子供の様に勢いよく首を横に振って否定した。

「葵さんが好きすぎて泣いただけ」

言葉のほとんどに濁点をつけた涙声で言った私を見て、大きく頷いた葵さんは人差し指の背で私の目元に触れる。

「好きすぎて泣いちゃう、か。そんなこともあるんだね」
「葵さんは無い? これが好きすぎて涙が出ちゃう、みたいな」
「うーん。そうだね、そんな経験はないなぁ。きらいとか、嫌だったらそういうことはあったけど……あ、昔の話だからね?」

今の俺の話じゃないからね。って念を押された。

「葵さんがきらいで泣いちゃうものってなに?」
「子供の時は近所にいた大きな犬が怖くて、吠えられる度に泣いてたかな」
「えへへ、大きな犬を怖がる葵さん可愛い」
「幼稚園に通ってた頃だよ。今は全然怖くない」
「ふふ、ちょっとムキになってる?」
「なってないよ」

少し拗ねたような顔をした彼は、私の鼻先を、とん、と指先でつついた。それがくすぐったくて、照れくさくて「ふへっ」って気の抜けた笑い方をしたら葵さんもつられるように笑う。

「うん、いつも可愛いって思ってるけど……君は笑っているときが一番可愛い。それに、見ていて安心する笑顔だ」
「か、かわいい? かな? 安心する笑顔……はじめて言われた」
「君は可愛い子だよ」
「う、ううやめてください。恥ずかしい……」
「可愛い。可愛い。可愛い」
「か、からかってるな!」

私の両頬を手で包んでうりゃうりゃと撫でてくる様子が小動物に接するそれだと気づいて彼の胸板をぺしりとたたいてやった。からからと笑う葵さんを見て悔しくなったけど、好きな人が楽しそうにしてくれていたら胸の中がぽかぽかして幸せになる。

「さて、そろそろ朝ごはんを食べようか」
「はーい! 今日も一緒に作っていい?」

私の返事が予想外だったのか、葵さんはほんの少し目を丸くしていた。嬉しそうにはにかんだあと私と身体をくっつけるようにベッドに寝転んで深く息を吸い込む。

「もちろん。君と一緒にキッチンに立つのは楽しいから大歓迎だよ」
「えへへ、私も葵さんとキッチンに立つの好き」

今日も素直に彼に好きを伝えると、葵さんは瞳にあたたかさを滲ませて私の頭をぽんぽんと撫でた。

「今日、ちょっと用事があるから家を空けないといけないんだけど……」
「そっか……うん、お留守番してるよ。任せて」

葵さんは私と契約しているレンタルダーリンとはいえ、個人的におでかけしたいときもあるんだろうなって思ってそこはちゃんと理解している。それが一体どこに行っていて何をしているか、なんてことは聞かないでいいかなって思っているし、お互いに入りこんではいけない領域だろうなって私は一人で自己完結している。仮とはいえ一応夫婦生活中だから、私も私で自由に過ごしていいだろうし……今日は私も個人的におでかけしようかな。

「あ」
「ん?」
「もうすぐ、クリスマスだね」

突然話題が変わって葵さんに言われて気づいた。そうだ。もうすぐクリスマスだ。
この話題を出したってことは、葵さんと一緒にクリスマスを過ごせるってことかな。だったら、クリスマス当日はおでかけも良いけどおうちで二人きりでゆっくりしたいな。クリスマスツリーを飾り付けたり、ちょっと良いお酒を開けて乾杯したり、二人で作ったおいしいごはんを囲んでのんびり映画を見ながら過ごしたい。特別なことはしなくていいから、恋人と大切に過ごす憧れのクリスマス。

「確か……押し入れにクリスマスツリーがあったね。一緒に飾りつけしようか」
「え! う、うん! したい! 飾り付け!」
「当日は俺が腕によりをかけたクリスマスディナーを作ってあげたいんだけど……どこか行きたいところとかある? このお店でごはんが食べたいなとか、もしあったら」
「葵さんのごはんが食べたい!」

もう背筋が伸びる思いだった。葵さんと一緒に。大好きな人と一緒に憧れのクリスマスを過ごせる。プレゼントとか渡したいな。わ、わ。どうしよう。色々調べて素敵なプレゼントを買わなくちゃ! とっても楽しみだ。クリスマスに対してこんなに浮かれているのは子供のころ以来かもしれない。

「うん、じゃあ当日はおうちでゆっくりしようか」
「葵さんとクリスマス! わー! しあわせー!」

嬉しさのあまりベッドの上でごろんごろんしていたら、葵さんが、ふっと吹き出して笑った。

「そんな風に喜ぶ人、初めて見たよ」
「ハッ……わたしは……なんて……こどものような、ことを……」

自らの行動に気づいたときには遅く、なんて幼稚な喜び方をしていたんだと今度はずーんと落ち込んでしまった。葵さんに変なところばかり見られている。恋に落ちてもらおうと意気込んでいる女がこんな……今のは、もっと「やった! 嬉しい!」って、きゃっきゃっと可愛らしく喜ぶ場面ではなかっただろうか。
こんな変なところばかり晒していたら惚れてもらうどころか逆に引かれてしまうのに!

「わ、わぁい! とっても嬉しいわ! 葵さんとクリスマスだなんて!」
「改めてももう遅いよ。今日も君は可愛いね。――はい。おはようのキスは、ほっぺにね」

姿勢を正して改めて喜んでいる私の手首を掴んで引き寄せた葵さんは、ちゅ、と唇をほっぺにくっつけてきた。
どっかーん! どこからその音が聞こえてきたかと思ったら私の頭の中からだった。声にならない声を出しながらときめきで悶え苦しむ私を胸の中に抱き留めた葵さんは楽しそうに笑っていた。
そろそろおはようのキスで爆発するのやめたいと思った。もっとすごいことをしているのになんでおはようのキスだけこんなことになるんだろう。
あと、こんな風に爆散しちゃうのに葵さんの唇にキスしようとした朝の私のマヌケな横面を頭の中で殴り飛ばしておいた。
そうだ。今日は葵さんへのプレゼントを探しに行くおでかけにしよう。
何をプレゼントしようか。考えるだけでそわそわして、来るクリスマスがとっても楽しみなものになった。
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