酔った勢いで契約したレンタルダーリンと期間限定の夫婦生活始めます!
今日も良い天気。清々しい朝だ。冬とはいえ暖房の利いている部屋はとっても快適。しかも床暖房まではいっている。
葵さんが朝食の支度をしてくれている間にリビングでテレビを見ていたら、また流れたのは通り魔のニュースだ。どうやらまだ捕まっていないようだ。二日前と昨日に襲われたのはどちらも若い女性。命に別状はない。犯人は二十代から三十代の男。刃渡り十センチほどのナイフを所有している。
アナウンサーが犯人の服装などを次いで報道したときだ。玄関の方で物音が聞こえて、私は立ち上がった。玄関に向かえば葵さんが今まさに家を出ようとしているところで、こちらを振り向いた彼によると、どうしても必要な材料が足りないから急いでスーパーに買いに行くらしい。

「私も行こうか?」

通り魔がうろついているのに葵さんが一人で行ったら危ない。襲われているのは女の人ばかりらしいけれど、そんなのたまたま女性ばかりだっただけで男の人だって襲われるかもしれない。その考えは伝えずに、黙って彼の返事を待つ。

「大丈夫だよ。すぐ戻ってくるから」
「うーん。暇だし、私も連れて行って」

少しだけまばたきを繰り返したした彼は、嬉しそうに、ほわっとした顔ではにかんだあと頷いてくれた。
昨日、葵さんと一緒に歩いたスーパーまでの道を行く私たちの手は繋がっている。葵さんの要望で、彼の小指と薬指を包む握り方だ。彼の手は大きいから、この手の繋ぎ方がしっくりくる。
向かいからすらりと背の高い女の人が歩いてきた。今この通りを歩いているのは私と葵さんとその女性の三人。そこに、女性の後ろ――少し離れた位置に男が続く。
なんとなく。本当になんとなくその女性と男をちらちらと見たんだけど、男とすれ違ったときになぜか本能的に「嫌だな」と感じて思わずすぐに視線を逸らした。
目を合わせちゃいけない。そんな気がして。

「やる気満々だね」
「え?」

葵さんがぽつりと呟いた言葉に顔を上げて彼を見る。彼はそんな私の視線に気づくとにこりと笑って首を横に振った。

「ううん、なんでもないよ」

なんでもない、とは言ったけど……気になる呟きだ。
やる気? 何のやる気だろう。葵さんに手を引かれて足を動かしながら考えを巡らせた。
葵さんが男とすれ違ってすぐ「やる気満々だね」と言った。ということはやる気満々なのは男のことだろう。それと、自らが感じたあの男に対する嫌悪感。男の前を歩く女性の姿。
一つの考えが頭をよぎる。
昨日と今日に見たニュース。それはこの近所で起こった――……そこまで考えて私の足が止まった。それに気づいた葵さんも歩みを止め、振り向く。私は葵さんの黒色の瞳をまっすぐに見上げて、同じようにまっすぐな声色で問う。

「やる気、って……殺す気ってこと?」

葵さんは困り顔で笑うと、私と繋がった手を少しだけ引く。

「だったらどうする?」

何も気にしていないような声色で、そんなことを言う。
一瞬、ぐっと歯噛みした私は葵さんと繋がった手を放して後ろを振り返った。
見えたのは角を曲がった男の背中。直線上の道路に女性の姿は無い。ということは、女性もあの角を曲がったということだろう。
すぐに私は走り出して、男の背中を追って角を曲がった。距離約十メートル先。女性の後ろを追う男がウィンドブレーカーのポケットからナイフを取り出したところで。音もなく忍び寄る魔の手に女性は全く気が付いていない。
どうしよう。どうしたらいい。助けなきゃ。でもどうやって。
ぐるん、と音を立てて問いかけが駆け巡る。ぐるぐるぐるぐる巡って、答えが出る前に私の本能は叫んでいた。

「やめなさい!」

おなかの底から出した声に女性が振り向いて、次いで男がゆらりとこちらを振り返り見る。男と目が合った瞬間、恐怖が一気に全身を染め上げていく。
女性は不思議そうにしていたけれど、自分の背後の男に気づいて、その手に持つナイフにも気づいた。やっと状況を理解したんだろう。女性は恐怖に顔を歪ませてゆっくりと後退ると、駆け出して逃げていく。
一方、男は何の表情を映しているのかわからない瞳でまっすぐに私を見ていた。そして、ゆっくり足をこちらに進める。歩みはだんだん速度を増して、近づいてくる。
ああ、標的にされた。
あわよくば、叫び声をあげたことで向こうが逃げるかと思ったのに。暢気にそんなことを考えてしまって、逃げなきゃとは思うけれど身体が動かない。まるで、何かに縛り付けられたみたいに足が動かなかった。

――刺される。

ナイフは私の首元を狙って、きらりと煌めいた瞬間に誰かに腕を引っ張られた。身体が左方向にものすごい勢いで傾いて、転びかけたところでその誰かが背中に腕を回して支えてくれる。
気付けば、葵さんの腕の中にいた。咄嗟に声が出なくて、ただ心の中で彼の名を呼ぶ。葵さんは私を見ずに男を見つめている。その表情には甘さも、優しさも、柔らかさも無い。
男はナイフを突き出した状態で動きを止めていたが、腕を下ろして葵さんを睨んだ。ぞっとするような冷たい視線だ。けれど、それを受け止めた葵さんは、けろりとして張り付けたように笑った。

「ああ、なかなか良い目をするね」

腕の中にいた私をきちんと立たせた彼は、庇うように前に出る。広い背中を前に、先程の恐怖のせいで動けずにいた私の心臓がただただどくどくと煩く鳴っている。

「人を殺したくて殺したくて仕方ないって目だ」
「黙れよ」

男は淡々と返すとナイフを逆手で持ち、葵さん目掛け振りかざした。身体に突き刺そうとしたナイフを持つ手首を葵さんは掴んで、男の身体をとん、と押す。押されたことによって男はよろけて数歩下がった。

「どうしたんだ? 殺したいんだろ?」

なぜか、どこか楽しそうな葵さんの声色に、私は我に返って。

「……葵さん、ダメ」

ダメ。
そう言うけど小さな声しか出なくて下唇を噛んだ。
その間に、男がまた葵さんに斬りかかって、葵さんがナイフを持つ手を払ってまた挑発する。男は明らかにイライラし始めている。葵さんは纏う雰囲気を軽やかにしていた。それがまた男の琴線に触れるんだろう。

「葵さんッ……」

私でさえ感じる、目の前の男をからかう空気に声が焦りを含んだ。思い通りにナイフを突き刺すことができない男を手のひらで転がしているみたいだ。
制止の声が聞こえているのかいないのか、葵さんは男を挑発してはナイフをいなし、それを繰り返して、とうとう男が声を上げて葵さんに襲いかかっていった。

「ダメ!」

大きな声が私の喉から出たときには、葵さんが男の喉を掴み上げていた。
男がナイフを地面に落としたけど、喉を掴む葵さんの反対の手がゆっくりと持ち上げられたのを見て、私は葵さんの腕を掴む。

「葵さん!」

それでも止まらない彼の背後に近づいて、彼の名前を呼びながら膝かっくんをしてやった。がくりと葵さんは膝を曲げて、その衝撃で男の喉から手が外れる。男は地面に喉を押さえて転がった。葵さんは少しの間、動かなかったけれど、ゆっくりと振り返って私を見た。
その顔は、きょとん、としている。次いで目をぱちくりさせて、ハッと息をのんで、口元を手のひらで覆って私から目を逸らした。それも、大げさなんじゃないかというくらいはっきりと、やましいことがあるときに見せる明らかな目の逸らし方だった。

「こっちです! 黒いウィンドブレーカーの男が……!」

向こうから聞こえてきた声と、ばたばたした足音。先程襲われかけた女性と女性が連れてきた警官の姿が見えた途端に、まずいと思った。だって、通り魔はこの男だけど、この状況だと下手したら葵さんが通り魔と勘違いされてしまうかもしれない。後々説明すれば大丈夫だろうが面倒なことになりかねない。
私は咄嗟の行動に出た。地面に落とされたナイフを、ぴーん! と蹴ってから、男をびしっと指さす。

「まいったか! この人に掛かればあんたなんてけちょんけちょんよ!」

どきどき。どきどき。こ、これで大丈夫だろうか。
警官が数名、大丈夫ですかと近づいてきて、すぐに男を拘束した。
状況と事情を説明してほしいと言われ、周りにはやじ馬が集まってきて、そこからもうてんやわんや。
葵さんも冷静さを取り戻してくれて、警察とのやりとりは完全に彼に任せてしまった。任せてしまったというか、恐怖を思い出してそれどころじゃなかったせいもある。
結局、お買い物をすることはできずに二人ともへろへろで家に帰りついた玄関で、私は葵さんをじーっと見上げた。

「な、なあに?」

今更、優しい甘い笑顔で誤魔化そうと言うのかこの男は。

「なにあれ」
「ん?」
「なんで男が通り魔だってすぐに分かったの? なんでやる気満々だねって言えたの? なんで人を殺したくて仕方ない目だってわかるの? ナイフを向けられてなんで楽しそうなの?」

私の口からは次々疑問が飛び出して。問いかけるくせに葵さんが答える隙を与えない。四つの質問を言い終えると同時に、ぼろぼろと瞳から大粒の雫も零れた。

「なんであんな挑発するようなことするの? あ、あおいさんがっ……刺されたらっ、どうしようっておもっ……う、えええ」
「あ、あっ、ご、ごめんね!」

感情が爆発して声を上げて泣きだした私に葵さんが思いっきり焦っている。手をバタバタさせて、私の目元に服の袖を伸ばして溢れて溢れて止まらない涙を拭ってくれている。それが余計に、なぜか腹が立った。

「ダメって! 言ったのに! なんであんな危ない挑発するの! なんで! 楽しそうなの! ばか! ばかばかばか! 怖かったああああ」
「ごめん。ごめんね。お願いだから泣かないで。もう怖いことは何もないから」

ぽかぽかと彼の胸板を弱い力で殴る私の頭を撫でて、何度も謝って、大丈夫だと触れてくれる。
だって、怖かった。ナイフなんて向けられたのはもちろん生まれて初めてだし、殺されると思ったんだから。さらに葵さんがあんな挑発をするから、葵さんが刺されたらどうしようって余計に怖かった。
ぐずぐずと泣き続ける私を掬い上げるように抱っこすると、器用に靴を脱がせて部屋の奥へ進んで行く。その間も「よしよし」と声をかけてくれることを忘れない。
寝室のベッドの上まで連れてこられて、やっと気持ちが落ち着いてきた。

「あのね」
「ん」

私の髪を梳きながら、優しい顔で覗き込んでくる。さっき通り魔と向き合っていたときの雰囲気なんて一切感じさせない、あたたかで柔らかい表情だ。

「これを言って、もし俺のことが嫌になったら……ちゃんと伝えてほしいんだけど」
「なに」
「俺、その……実は――……元ヤンキーなんだ」
「は?」

今までの人生の中で一番の、心の底から出た「は?」だった。
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