新鋭俳優は夢追う初恋教師を溺愛で包む

1 はじめての人

 私、子どもの頃に思っていたのとは全然違う世界に立っているんだな。
 それは幸いでも不幸でもないのが、とても現実らしい。
 そんなことをふと思ったのは、五月のはじめの出来事。
織部(おりべ)さんは、ゴールデンウィークはどうするの?」
 私は封筒の宛名を書く手を止めて顔を上げる。
 校庭から吹く砂混じりの風で、事務机がざらつく。同僚たちは昼下がりのけだるさの中で仕事をしていて、私もその風景の一部だった。
 今時珍しい木造の職員室。棚に置かれたトロフィーだけが真新しかった。
 私は考え事から目覚めて、短く声を上げた。
「……あ」
 私は自分に問われたのだと気づいて、反射的に笑顔を作って言った。
「ゴールデンウィークはずっと寮にいます。寮の会計の締めをしないと」
「えぇ?」
 私の向かい側に座る経理の緒方(おがた)さんは、露骨に呆れ顔になって言った。
「これだけ毎日事務仕事をして、大型連休も事務? 真面目なのはいいことだけどさ、休みくらい仕事から離れないと」
「でも、会計は誰かがやらないといけないことですから」
「面倒くさいことばっかり引き受けちゃだめだよ。あたしたちの業界なら特に」
 そう言いながら、緒方さんは面倒見がいい。正規職員ではない私にも熱心に仕事を教えてくれるし、時には庇ってくれる。
「仕事そのものが面白いわけじゃないんだからさ。仕事以外に楽しいことを自分でみつけなさいよ。それが長くやっていくコツ」
 その言葉には、私はちょっとだけ首を傾げる。
 私の仕事は、高校の嘱託職員だ。帳簿の確認をしたり、書類や郵便物を管理する。
 地味かもしれないけど、私はこの仕事が好きだ。つらいことも傷つくこともあるけど、楽しいこともちゃんとある。
 でもきっと、長く仕事をしている人の言葉の方が事実に近い。私はうなずいて答えた。
「よく心に留めます」
 私のように一年しか社会で働いていない人間は、まだ本当のつらさを知らないだろうから。
 次の瞬間、緒方さんは私より声をかけるべき人をみつけたらしい。通りかかった男性をつかまえて書類を突きつける。
千葉(ちば)先生! 退庁簿、書き直しです!」
 つかまった男性は、意外そうに声を上げる。
「え、どこが?」
「でたらめに書いているのが丸わかりです。千葉先生がこんな早くに帰っていないのはみんな知っています」
「そっか。ばれちゃいました?」
 千葉先生は二十台後半で、スポーツマンらしく日焼けしている。千葉先生が愛嬌たっぷりに笑うと、緒方さんは顔をしかめて息をついた。
「正確な記入をお願いしますよ。手当にかかわってくるんですから」
「ん、ごめんなさい」
 二人の様子を、同僚たちが含み笑いをして見ていた。
 ちょうど三十になる事務職員の緒方さんと、それより少し年下の千葉先生。いつ結婚するんだろうねと、同僚たちが話しているのを聞いたことがある。
 二人が付き合っているとは聞いていない。けどお互い若いから、そういう噂が流れる。
 私は目を伏せて、あいまいに首を傾げる。
 ……この年頃だって、結婚ばかりが夢じゃないと思うんだけどな。
 私もそうだから、他人にもその形をあてはめるのは気がとがめた。
 私は集めた郵便物を袋に詰めて立ち上がる。
「郵便局に行ってきます」
「いってらっしゃーい。気をつけて」
 私が声をかけると、緒方さんが手を振ってくれた。
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