新鋭俳優は夢追う初恋教師を溺愛で包む
 職員室を出ると、ちょうどチャイムが鳴る。校舎のあちこちから、人が動き出す気配を感じる。
「あ、織部先生」
 私が靴箱で靴を履きかえていたら、ホームルームが終わったばかりの女子生徒たちに出会った。
 今和泉(いまいずみ)高校は生徒数二十四人の小さな学校で、しかも去年までは女子高だったから女の子がほとんどだ。
 私は郵便物を入れた袋を持ち上げてみせる。
「今日は先生じゃないの。郵便屋さん」
「そうなんですか。たくさんあります?」
「うん。たくさん宛名を書いたよ。がんばった」
 この学校は明治の頃に紡績工場の女工さんを受け入れていた由緒ある建物で、今は少人数ながら成績のいい生徒が集まる。あまり世間ずれしていない、育ちのいい子たちが多かった。
 私は正職員の先生たちに比べて彼女たちと年が近いものだから、冗談交じりの言葉をかけられることもある。
「変な人について行っちゃだめですよ」
「はいはい」
 そんな気安さが心地よくて、私は女子生徒たちと手を振って別れた。
 郵便局までの高低差の激しい山間の道を下る。私はそう体力のある方じゃないから、いつも息が切れてしまう。
 今が一番過ごしやすい季節なのが幸いだった。山の中のここはまだ桜の名残があって、時々どこかからか花びらが飛んでくる。
 私は郵便局に行く前に、町役場に立ち寄って受付に声をかけた。
「今和泉高校からです」
「ああ、ありがとう」
 郵便局は町役場のお隣だ。だからついでに役場へのお使いも頼まれていて、いくつかの部署を回って書類を届けた。
 そのとき、役場の職員さんの言葉が耳を掠める。
「明日からだよね」
「しっ! まだ伏せてるんだから」
 なんとなく、役場の職員さんたちが浮足立っている気がした。私は首を傾げながらお使いを終えて、郵便局へ向かう。
 私が顔なじみの局員さんに郵便物を渡して手続きを待っていると、同じように町役場から郵便物を持ってきている嘱託職員の女性も入ってきた。
 女性は私の顔を見るなり、うらやましそうにつぶやく。
「いいなあ、織部さん」
「え?」
「私も勤務地の希望、今和泉高校にしとけばよかった。これから毎日、非日常が見放題だもんね」
「なんのことですか?」
 私がきょとんとしていると、彼女は意外そうな顔をした。
「え、いや、知らないの? もう明日からなのに」
 彼女は息を吸って何か言いかけたが、局員さんが戻ってきたのを見て口をつぐむ。
「若い娘さんがこれでいいのかね」
 彼女はそんなことを言い捨ててため息をつくと、じゃあねと手を振った。
 私は釈然としないまま郵便局を出て高校への帰路を辿る。
 途中で下校途中の五、六人の生徒たちとすれ違った。
「さよなら、先生」
「ゴールデンウィーク明けは水曜日ですね」
「うん。楽譜を忘れないでね」
 あいさつを交わし合っていると、一人の生徒と目が合った。
 凛とした空気をまとう、利発そうな少年だった。少し猫目で、癖毛の黒髪をしている。引き結んだ口元に少年らしい頑固さがにじんでいる。
 私は彼にもあいさつの声をかける。
(ひびき)君も、さよなら。気をつけて帰ってね」
 彼は今和泉高校に今年から入学した、唯一の男子生徒だ。でも彼はぷいと私から顔を背けてしまった。
 女子生徒たちは慌てて彼の後を追う。
「あ、待ってよ! 響君」
 響君は私の横を通り過ぎて行ってしまう。女の子たちの声が後から追いつく。
「先生に失礼だよ」
「ね、どうしたの?」
 肩を叩いて響君を引き留める生徒たちに、私は苦笑して言った。
「ごめんね。気安い物言いは、響君嫌いだよね。じゃあ私、学校に戻るから」
 女子生徒たちが不満げな顔を響君に向ける中、私は坂道を登り始める。
 ……私は響君に嫌われているらしいと、今年になって気がついた。
 一年前、彼が中学三年生のときには、屈託ない笑顔を私に向けてくれていた。でも高校生になって、しかも学校中で唯一の男子生徒ともなると、彼も難しいことが増えたのだろう。
 それが年頃の感傷だとは笑えなかった。私も十年前を思い出すと、その頃の悩みや葛藤は大人でも手に負えないものが多かったと思う。
 私には、力になってくれる大人がたくさんいた。私が今できるのは、ちょっと離れたところから響君を見守ることだ。
 今でも悩みで頭がいっぱいで、涙があふれて夜眠れないことはたくさんあるけど。そういう悩みや痛みとの付き合い方は、学生の頃より上手になったつもりだから。
 息を切らしながら坂道を登り終えて、職員室に戻ったときだった。
 校長先生が校長室から出てきて、先生たちを集めていた。
「ではみなさんお待ちかねの、撮影日程を配布します」
 嘱託職員の私にとっては、終業時間間際。何か発表があるときは朝礼だから、そんなときに発表されるのは珍しい。
 私は小声でぽつりとつぶやく。
「撮影日程?」
「あれ、織部さん知らなかった?」
 隣に立った緒方さんが、声をひそめて教えてくれる。
「明日から、この学校でドラマの撮影が始まるんだよ。何度かスタッフさんが来てたじゃない。騒ぎにしたくないって先方の要望で、住民にはまだ内緒にしてあるけどさ」
「ああ……そういえば」
 言われてみれば、思い当たるところはあった。元々この学校は明治からの歴史ある建築物だし、私が勤め始めてからも取材現場に立ち会ったことがある。
 でもそれだけなら、私よりずっと長く勤めてきた職員の皆なら慣れっこのはず。
 緒方さんは上機嫌に言葉を続ける。
「まあすぐに知れ渡ると思うけどね。大がかりな撮影だし、なにせ俳優陣が豪華だから」
 豪華な俳優陣、その言葉に引っかかりがあった。
 期待というよりは不穏な胸の高鳴りが聞こえて、手の平に冷たい汗がにじむ。
 校長先生は先生たちにプリントを配って念を押す。
「部外秘ですから、学校から外には持ち出さないでくださいね」
 私は配られたプリントに目を通して、はっと息を呑む。
 瞬間、時間が止まったような気がした。
 プリントの一番上にあった名前は、私が苦い思い出を抱く人だったからだった。
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