新鋭俳優は夢追う初恋教師を溺愛で包む
 私は一年前に戻ったような錯覚に陥って、なんだか立ちくらみがした。
 彼との思い出は、宝物のように胸に収めている大切なものだ。
 でも彼から離れて一年間ここで過ごした記憶には、まぎれもない悪夢があった。
「送っていこうか?」
 昇降口で座り込んでいた私に声をかけてきたのは、千葉先生だった。
 彼のからっと明るい表情が曇っている。今和泉高校の職員室を照らしてくれる太陽のような人なのに、言葉一つかけるにもためらっている様子だった。
 きっとそれほど私は複雑な顔をしているのだろう。どうやって職員室から出てきたのかも覚えていない。あいさつも忘れていたかもしれない。
 あいさつは基本だから、気を付けていたのに。その一声で、職場は天国にも地獄にも変わるから。
 一声でいいから、自分からかける。そう反省したはずだったのに……。
「また何かあったの?」
 頭のネジが数本外れていた私の意識を、千葉先生が引き戻す。
 私はのろのろと千葉先生を見返す。
 「前」のことを千葉先生が口にしたのは久しぶりだった。それは私にとって触れてほしくないことで、千葉先生だってそれはわかっているはずだ。
 千葉先生は精悍な顔をくしゃりと歪めて、ため息をつく。
「そりゃ俺だって、女同士のことには踏み込みたくなかったよ。でも教師の俺が、いじめを知って黙ってるなんてできないだろ」
「……いじめじゃないです」
 いじめという言葉に神経がざわついて、反射的に言い返していた。
「私が未熟だったから、先輩たちの指導に熱が入っただけです。私があまりに何もわかってないから」
「わかってないのは当たり前だろ。織部さんは働き始めたばかりだったんだから」
 千葉先生は年上らしい落ち着きを持って諭す。
「もう認めてもいい頃だと思う。去年のあれは、いじめだった。織部さんは逃げて正しかった」
 去年の春、私は今和泉高校の別の部署で働き始めた。
 そこは文化財的価値のある今和泉高校ならではの、学校の宣伝や活用を行う部署で、いうなれば花形だった。
 だから十年以上長く、その部署だけに勤めているベテランさんばかりだった。彼女らから見て、入ったばかりの私はどれだけ歯がゆく見えただろう。
 一度あいさつを忘れた。それがきっかけだった。
 なぜそんなこともわからない。前の嘱託さんはもっとうまくやってくれた。あなたは責任感がないんじゃないか……。
 怒鳴ったり、暴力をふるわれたわけじゃない。ただ降り注ぐ言葉に、氷の上に裸足で立っているような気分だった。足元から凍っていって、いつしか全身が動かなくなった。
 半年で体重が十キロ減った。電話に出ようとしても声が出なくなった。
 気持ち悪くてトイレから出られなくなって、最後は救急車を呼ぶ騒ぎになってしまった。
 結局私は、去年の十一月という中途半端な時期に部署を変えられた。
 私はやっとのことで言葉を取り戻して言う。
「千葉先生と緒方さんに、ずいぶんとご迷惑をおかけしました」
 千葉先生は、「織部さんの様子がおかしい。見に行った方がいい」と緒方さんに言ってくれた。そのおかげで、トイレで半分意識を失っている私を緒方さんがみつけてくれた。
 今の部署に来てからも、千葉先生と緒方さんは何かと私を気にかけてくれる。
 千葉先生は首を横に振って言う。
「俺たちのことは気にしなくていい。できるなら居心地のいい職場にしたいって、誰だって思うから」
 千葉先生と緒方さんは優しい。人のためだと声高に言わないところが、余計にそうだと思う。
 千葉先生は靴箱に手をついて私をのぞきこんでくる。
「もしまた、何かあったら早めに相談して。一人にだけはなっちゃだめだよ」
「……はい」
 私は目の奥が熱くなるのを感じながらうなずいた。
 私は靴を履きかえて立ち上がる。
 立ちくらみはまだ続いていた。元々貧血体質だったし、体重が急激に減ってからはもっと頻繁に血のめぐりが悪くなった。
 壁を伝うようにして歩いて、校庭に出た。
 一年前、あの頃私は守られていた。
 そこに居続けていたらきっと心地よかっただろうけど、私は変わりたくてそこを出てきた。
 悲しみも痛みも、きっとなくなる日は来ない。
 でも、と自分に言葉をかける。
「……会いたいな」
 私は壁に手をついたままつぶやいた。
 もう子どもじゃないのに、大丈夫とまた胸に包んでほしい。
「私、大人なのにね」
 自分で別れを告げたのに、なんて身勝手。私は壁に手をついたまま、自己嫌悪でしばらく身じろぎ一つできなかった。



 歩いて三十分かかる最寄駅まで行って帰ってくるという、無意味なことをした。
 体が、また彼から離れようとしたのかもしれない。でも会いたいという内なる声も同じくらい強くて、電車に乗れなかった。
 駅で何本かの電車を見送って、結局寮までの帰路を辿る。
 歩きながら、ここで働いていた一年間を思い返した。先輩たちから投げつけられた言葉、何気ない冗談、生徒たちとのあいさつ。学校のチャイムと雪かきの音。
 いいことばかりでもないけど、悪いことばかりでもなかった。
 一年前、一人で歩けるだろうかと思って踏み出した一歩。
 ……二歩目はどこに向かうのか、まだ想像もつかない。
 寮に戻ったときは、夜の九時半を回っていた。今和泉高校の学生寮にも使われているここは、十時が門限だ。
 何も食べていないから、少し痛むくらいお腹が空いている。明日からゴールデンウィークとはいえ、お風呂くらいは入らないといけない。
 闇に落ちた門に手をかけようと、手を伸ばしたとき。
沙千保(さちほ)
 懐かしい声に、呼吸を止めてしまった。
 風が流れる方向に振り向く。
 孤高の桜。そう称される彼は、透明感のある美貌を持っていた。背が高くすらりとしていて、切れ長の綺麗な黒い目をしている。それでいて、袖から覗く長い指や、首筋にかかる硬質な髪に品のいい男性らしさが宿る。
 彼は変わらないなと思う。いつも顔を覗き込んで優しく頭を撫でてくれた頃と、まなざしの穏やかさまでそのままだ。
 一瞬、彼に対する複雑な思いを忘れた。一年前のように、たたっと走り寄って無邪気に抱きしめたいとさえ思った。
 けれど私は一歩も動けなくなる。私はごくりと息を呑んで言葉を告げた。
「……夢を追う私は、あなたとはいられない」
 あの日と同じ別れの言葉を、私はもう一度繰り返す。
 けれど彼はあのときとは違う力強さを持って、言葉を切り出す。
「そう言って沙千保は俺を夢に送り出してくれた。……今度は俺の番だ」
 彼は包み込むようなまなざしで私をみつめながら言う。
「初恋だけ追ってる俺は、格好悪いかな」
「……啓斗(けいと)
 それは私だって同じだよ。もう少しでそう言いそうだった。
「名前、沙千保の声で久しぶりに呼んでくれた。今はそれだけでいい」
 啓斗は恥ずかしそうに笑って、宵闇に小さく息をついた。
 啓斗が主演男優賞を取って俳優として歩き出してから、一年が経とうとしていた。
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