あんなに嫌っていたのに……記憶を失った婚約者から溺愛されて困惑しています
 微笑を浮かべながらもオーランドの瞳は真剣で、アリエノールは早鐘の様な胸の鼓動を抑えながら渋面を浮かべた。

「お手柔らかにと、申しましたのに……」
「すまない、柄にもなく浮かれてしまったようだ……君を前にするとダメだな、我慢がきかない」

 自嘲的な笑みを浮かべると、オーランドは目を伏せた。途端にオーランドを責めたくなる気持ちがしゅんと萎んでしまった。近頃オーランドを前にすると気持ちの振れ幅が大きすぎて苦しくて仕方がない。

「怒っているわけでは……ありません。戸惑っているだけで……」
「怒って詰ってくれても良いんだ。俺はそれだけのことをしただろう?」
「まさか……記憶が?」

 オーランドは真っ直ぐアリエノールを見詰めると、ゆっくりと頷いた。

「記憶が戻った……というのは少し違うかもしれないけど、以前の俺が君にどんなことをしてきたのかは分かった……」

 引っかかる物言いにアリエノールは首を傾げる。その様子にオーランドは苦し気に眉根を寄せた。

「まだ幼い頃に俺の人格は封じられて、別の人格に操られていたんだ。その人格は君を徹底的に嫌うよう仕込まれていた」
「誰が……そのようなことを……」

 オーランドは空のある一点に強い眼差しを向けた。

「いるんだろ? 出て来いよ、ゼル・ディガン!」

 オーランドが叫ぶと同時に、黒い塊が空に姿を現した。大きな翼を開いて現れたのは、青白い顔をした痩身の男。
 アリエノールは初めて目にする男だったけれど、彼が何者なのかすぐに分かった。
 だってこの気配は生まれた時から側に居た――

「あなた……ゼル!?」

 男はふわりと地に降り立つと悲しげな眼をアリエノールに向けた。

『そうだよ、君のゼルだ』
「それが本体?どうしていままで烏の姿で?」
『ファロールに封じられたからだ』

 ファロール……あのオーランドに似た夢の人物のことだろうか?

「俺がファロールと呼ばれ、君がノエルと呼ばれていた時代、ゼルはその力を姿と共に封じられたんだよ」
「あれは……夢ではないのですか!?」

 オーランドはふっと表情を和らげた。

「君はノエルの魂を宿している。ノエルが見せたノエルの記憶だろう」
「あなたが、ファロール?」
「そう。正確にはファロールの魂の欠片を持つ者だ。ノエルの魂と共に在る為に」

 魂の欠片? その概念は人のものではない。それはむしろ――

「ファロールとは精霊だったのですか?」
「ああ、今では王家と高位神官のみに知られる精霊王の名だ」
「それじゃノエルとは……」
「ファロールの……妻だよ」

 さあっと風が吹き抜けた。滾るような破壊の意思と共に、走馬灯のようにめくるめく記憶の渦がアリエノールの頭に流れ込んできた。

『アリエノールは僕のものだ!』

 ゼルから向けられる真っ直ぐな害意にアリエノールは立ち尽くす。大きな力の刃がアリエノールを貫いた──そう思ったのに衝撃はいつまで経ってもやってはこなかった。

「怪我はない、アリー?」

 目の前では空色の瞳が優しく笑んでいる。

「あっ……そ、んな……いやああああ!」

 オーランドの腹部からはドクドクと命の源が溢れ落ちていた。アリエノールは泣きながらドレスを引き千切り、オーランドの腹部に押し当てる。

「大丈夫、だ……泣かな、でアリー……」

 地に片膝を着いたオーランドをアリエノールは強く抱き締めた。

「いや! ダメです! まだ約束が果たされてないではありませんか!」
「ああ、そう……だな……君の、気持ち、を……」
「私を置いて死んだら本当に一生許しません! 誰か早くお医者様を!」
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