あんなに私を嫌っていたのに、記憶を失った婚約者から溺愛されて困惑しています
 むっと不貞腐されたような顔で頬杖をつきながら、アリエノールはチラリと左の肩に目を向ける。

「何とかこの婚姻から逃れられないものかしら」
『さあ、どうだろう?』
「何が気に入らないのか、あの人出会ったその日から私を嫌っていたのよ」
『どうしてだろうね、君はこんなに美人なのに』
「全部見てたくせに……ホントいい性格してるわね、ゼル。時々本気で憎たらしいわ」
『悲しい事を言うね。僕は君が大好きなのに』

 ゼルが笑う度カチカチと硬質な音が響いた。アリエノールはそんなゼルをじと目で見遣る。ゼルは真っ黒な烏の姿をした精霊だ。
 生まれた時からゼルはアリエノールの側にいた。
 マリアやターシャにも当然精霊がついていたが、いずれも人と変わらない容姿をしていた。しかも並外れた美貌の。何故私の精霊だけこれ?
 アリエノールはゼルの羽を摘み上げる。

『痛いよ』
「へえ、精霊にも痛覚があるのね」
『勿論、性欲だってあるよ』
「……要らない情報だわ」
『もっと僕のこと知りたがってよアリエノール』

 バサっと羽を広げるゼルをアリエノールは黙殺する。

「……正直このまま結婚なんて……中々辛いものがあるわね」
『アリエノールはあの男と仲良くなりたいの?』
「別に……普通に接してくれたらいいのよ。今のままじゃろくに会話にもならないし……ああ、あんな男いなくなれば良いのに……」

 はあっと溜息をつくアリエノールを、ゼルの闇色の瞳がじっと見下ろしていた。


 「嘘……まさか……ゼルが?」

 ゼルとの数日前の会話を思い出したアリエノールはさあっと青褪める。
 オーランドが記憶喪失となって以来ゼルは姿を消していた。これまでも数日姿を消すことなど珍しくはなかったが、その妙な符号がアリエノールの不安を駆り立てるた。

「ゼル、どこなの? 出てきて」

 アリエノールの呼びかけが部屋の中で虚しく響き渡る。

 「私の……せい?」

 カタカタと指先が震えた。
 精霊は自由で気紛れだ。
 彼らに人の世の善悪など通用しない。仮にゼルがやったのだとしたら、それは純粋にアリエノールを思ってのことだ。

 あんな男居なくなれば良いのに――

 そう願ったのは事実だが、彼の存在は消えてはいない。いや、アリエノールが嫌った彼はいなくなったのだ。一切の記憶と共に――
 アリエノールは自らを落ち着かせるため深呼吸をすると、きっと顔を上げて部屋を飛び出した。
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