記憶を失った婚約者からの溺愛に困惑しています
 ゼルがひょっこり姿を現したのはそれから数日後のことだった。

「ゼル!?」
『ただいまアリエノール』

 ゼルは突然虚空から現れて、バサリとアリエノールの肩にとまった。

「心配したのよ! 今までいったいどこに……」
『ちょっとドジ踏んで……』

 アリエノールは有無を言わさずゼルの体を両手で掴むと目の前に掲げた。

「アイツに何かしたの?」
『アイツって?』
「オーランド殿下」

 ゼルは忙しなく瞬くだけで押し黙る。
 これはグルフの反応に似ていた。

「話せる範囲で教えて。私のためにやったの?」
『……違う、僕のため』
「ゼルの? どういうこと?』
『あの男邪魔、目障り』
「ゼル、さっぱり分からないわ。あなた彼と直接関わりないでしょう?」

 ゼルは再び沈黙する。
二人には自分の知らない何かがあるのだろうか。

「アイツね、記憶を失ってからまるで別人のようよ。心がついていけないわ……」
『嬉しいの?』

 今度はアリエノールが言葉に詰まった。
 嬉しい?
 違う、途方に暮れている、という感覚のほうが正しい。
 どんなに優しくされようと深く刻みこまれた傷は彼を許せないでいる。
 けれど……時折凍りついた心が、彼から向けられる熱に震えるのも事実だった。

「いいえ……正直どうしたらいいのか分からないのよ」
『アリエノール、僕のこと好き?』
「何よ突然、当たり前でしょ」
『ちゃんと好きって言って』
「好きに決まってるわ」

 ゼルは嬉しそうに嘴をアリエノールの鼻に擦り付けた。

『アイツより好き?』
「そもそもアイツを好きな気持ちなんてこれっぽっちもないわ」

 その時不意に「アリー」と嬉しそうに呼ぶオーランドが思い出されてツキリと胸が痛んだ。
 まさか絆されかけているのだろうか……近頃は自分の心すら理解し難い。
 でもだめだ、これまでの仕打ちを思い出せ、冷酷に見下ろしていた凍える月のようなあの眼差しを──

 途端に指先が震え、冷や汗が頬を伝う。
 憎悪でも嫌悪でもない、虫けらのように溺れるアリエノールを蔑んでいたあの瞳。
 忘れられるものか、決して。

『好きだよ、僕のアリエノール』
「私はあなたのものじゃないわよ」
『僕のアリエノールだ』

 アリエノールは眉尻を下げると困ったように首を傾げた。

「何があったか知らないけど、今日のゼル変だわ」
『僕は何も変わらないよ。ずっと君を大好きな僕だ』

 アリエノールはふうっと息を吐くとゼルを膝に乗せ、首筋を揉むように撫でた。
 ゼルは気持ち良さそうに目を閉じる。

「もう勝手に何日も居なくならないで。心配したんだから……」
『心配させてごめんね、アリエノール』

 反省は見せるけれど、ふらりと姿を消すことはやめられないようだ。
 人と精霊、違った理で生きるもの同士理解できないことがあっても仕方がない。
 けれどゼルが何を思って何を為したのか、それはアリエノールが知らなければならない事のように感じていた。
 だが今はまだその時ではないのだ、きっと。



『僕は君を守るよ、今度こそ……』

 眠るアリエノールに囁くゼルの声は、彼女に届く事のないまま闇に溶けて消えた。

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