におい

【終】分岐点はいつだって、後から分かるもの

 C美が3歳を過ぎたばかりの頃、俺はインフルエンザで40度近い熱を出して寝込んでいた。
 少しでも隔離した方がいいだろうと、普段は使っていない2階の予備室に布団を敷いていた。

 C美はまだ幼稚園に入る前だから、ずっと家にいる。
 いつもは出社している俺が家にいることにソワソワしているようで、どうしても俺に近づいて話しかけたがっているのを、何度もA子に止められ、軽く叱られていた。

 何を言っているのかは分からないが、C美の甲高い声と、それを穏やかに諭すようなA子の声が階下でしているのが(かす)かに聞こえ、熱もあって喉も痛いのに、不思議と幸せな気持ちになっていた。

 薬が効いてひと寝したら少しだけ楽になったが、同時にトイレに行きたくなって階下に下りた。

 すると、C美がすすり泣く声が聞こえた。
 A子は俺が下りてきたことに気づかないようだった。
 リビングで立ったままのA子の後ろ姿と、うつむいているC美が見えた。

 何となく声をかけにくい雰囲気だったので、こっそり話を聞くと、A子がC美に向かってこんなことを言っていた。

「ほらほら、泣かないの。泣くとますますブサイクになるよ」
「せめてもっとかわいければ、『ドジっ子かわいい』で済むんだけどねえ」
「ブスの失敗なんて、かわいい子の100倍イラっと来るんだよね」
「顔がひどいんだから、せめてしっかりしてよね」

 どうやらC美は何か失敗してしまったようだ。
 多分だが、ジュースをこぼしたとか、せいぜいそんなところではないだろうか。
 C美の顔は確かにA子に全く似ていないが、年齢の割に賢くて、活発で朗らかな自慢の娘だ――と、少なくとも俺は思っていた。

 A子が言っている言葉の意味は、C美に全部正確に伝わっているわけではないと思う。
 口調は穏やかだが、大人からあんなふうに頭の上から責められれば、C美もその状況が「よくないもの」だとは感じているのだろう。すすり泣いているのが何よりの証拠だ。

 その様子を見ているうちに、なぜか突如、俺の鼻というか口というか、そのあたりに、あの何ともいえない不愉快なにおいが広がった。

 俺はトイレに行くと、真っ先に嘔吐した。

 A子が俺がトイレに入ったのに感づいて、「あなた、大丈夫?」とノックをする。
 C美の「パパ、だー(・・)じょーぶ?」という声も聞こえた。

「だいじょうぶだよ、しんぱいいらない」

 俺がそう言うと、A子は「何かあったら声をかけてね」と言って、その場を去った。
 俺はC美の「だーじょーぶ?」という、少し涙混じりの声を聞いて、自分があの日、取り返しのつかないことをしたことに気づいた。

***

 あの日、20XX年11月某日。 祝日だったので、実は日は簡単に特定できる。
 ただ、「その日」に意味を持たせたくなくて、ずっと思い出さないようにしていただけだ。

 俺はあの日、A子に会うのが憂鬱で億劫で仕方なく、それでも会いにいった。
 彼女はいつにもまして魅力的だった。
 実はあの後も、A子の嫌な癖、嫌なにおいを何度も感じたけれど、その都度何らかの形でその思いを打ち消していた。

 予感というのは意外とバカにできないらしい。
 俺はきっと11月のあの日、A子と別れるべきだったのだ。
 そうすれば、「ちょっと“おへちゃ”だが、誰よりもかわいい娘」を泣かせることはなかった。というよりも、C美という娘の存在自体がこの世になかったのだ。

 A子と結ばれるべきではなかったと考えることは、C美の存在自体を否定することにもなりかねないのだが、そんな理屈を考える頭の余裕がない。

 A子はC美にとっては優しい母親で、俺にとっては最高の妻だ。
 それでいて、時々ああやって黒い人間性が顔を出す。

 「好き、嫌い」と花びらをちぎっていく花占いのように、俺はA子に対する感情を日々更新していくしかないのだろうか。

 きれい好きなA子の手でピカピカに掃除されたこの家は、あちこちに芳香剤を置いたり、ディフューザー?というやつが置いてあったりして、いいにおいがする。

 そして時々、A子自身から、心ない言葉とともに、不愉快なにおいが立ち込めもする。

【Fin.】
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