君の絵を描くなら、背景は水平線にしよう。
一章 純粋無垢な君と出会った

「久しぶり、朔くん」










「久しぶり、朔くん」



───────────────












朔夜side




春の暖かい日差しの中、潮の香りが鼻の下をくすぐって通り去っていく。
目の前では、青に染まった波が行ったり来たりしていて、その縁には、麦わら帽子に白いワンピースを着て、髪をなびかせている少女が。
そして、足を少し濡らしながら、またも波が来るのを待っている。
その様子から、目が離せない。
心臓の音がドク、ドク、と大きくなっていって、虫取り網を持つ手には力が入る。



きれいな、おんなのこ……
おなまえ、しりたいなあ。



齢五歳。
幼いながらもその子の美しさに見惚れて、聞かずにはいられなかった。



『ねぇ、だぁれ?』



無意識に目を輝かせて、聞いてみた。
一刻も早く、目の前にいる綺麗で可愛い生き物の、名前が知りたかったから。
その女の子はこちらを振り返る。
帽子で隠れて見えにくいけれど、確かにニコッと微笑んで、自分の名を口にした。



『───、───』



可愛らしくも透き通った綺麗な声が、とても印象的だった。



そして翌日。
友達はいるけど最近はあまり予定が合わず、いつも1人で、砂浜を駆け回るサワガニを目当てに海へ遊びに行く。
でもその日は、あの子を目的に海へ行った。
それでもやっぱり、虫取り網とバケツも持って行く。
今日も、その子はいた。
海を大きく捉えているその1枚の画に、ずっと前からいたかのように溶け込んでいるその子。
きれいだなぁ、なんて思ったりもして。
女の子はこちらに気がつくなり微笑んで、手を振ってくれた。



『!──ちゃんっ』



ときめく5歳児の心をそのまま音にしたかのような明るい声で、その子の名前を呼んだ。
それから、その子とは毎日遊んだ。
きっと太陽のように輝いて眩しいであろうその笑顔は、何故かいつまで経っても帽子という名のフィルターで隠されている。
にも関わらず、2人で手を繋いで、春のまだ冷たい海に足を踏み入れる。



『気をつけてね~!』



母にそう言われ、俺はその子を絶対に守ろうと、ギュッと手を握る。
そして父は、安全のためかこちらへ向かってきている。
そんな時のことだ。
青い波が、牙をむいたのは。







カーテンの隙間から差し込む日光で、アラームの設定時刻よりも10分早く目が覚める。



「…………ふぁ」



どのくらい前だろう。
ひどく懐かしい夢を見ていた気がする。







好きを求めた先にあるのは誹謗だと知って、早3年。
何度も死んでしまいたいと思いつつ、高校生になる前の春休み中の今でも、実行は出来ないでいる。
それでも最近は、死への気持ちが大きくなる一方。
今後のため、という理由だけで行く高校になんて、行きたくないからだ。
それに。



今後なんて、無いかもしれないのに。



でも実際は死にたいとか思ってるくせに、絵が描けなくなるかもとビビって死ねていない。
そんな自分が、大嫌いだ。
そして、こんな臆病者が自分だということにも腹が立つ。



俺・杉野朔夜(すぎのさくや)は、絵を描くことが好きで、中学に入ってからインターネット上に自分の描いた絵を投稿し始めた。
ちなみに絵はアクリル絵の具で描いている。
自分の気持ちをさらけ出せる絵は、俺にとってなくてはならない存在だ。
そんな俺の絵を、両親や友達は上手いと言って褒めてくれる。
その一方、ネットでは心もとない言葉でコメント欄が埋め尽くされて。



なんで……なんでだよ。
母さんも、父さんも、アイツらだって……
オレノエガ、ウマイッテイッテクレルノニ。



そのうち俺は、両親や友達が言っていることが本当なのか、ネットの言っていることが本当なのか分からなくなっていた。
つまり、両親や友達の言葉を疑うようになってしまったのだ。
そんな自分を嫌いに嫌って、何度もこの世から消えることを考えた。
それでも、やっぱり絵が好きだから。
絵だけは、信じられるから。
死後がどんなものなのかは分からない。
自分の欲しいものがなんだってある楽園のような場所かもしれない。
はたまた、毎日火で炙られたりする地獄のような場所かもしれない。
でも何故か、前者はないような気がして。
死んでしまったら、もう絵は描けない気がして。
その不確かな予測が心音を繋ぐ今日、俺は絵を描くためのセットをエコバッグに入れ、空の上ではなく海に向かう。



今日は風が強いな……



春風に少しの違和感を覚え、歩くペースを落としてみる。
そしてふと、自分の左手に広がる大海原に目をやる。
いつもより少し、海の色が鮮やかに輝いて見えた時。



「………は?え……はあ?」



目に映りこんだ光景を疑い、目を擦る。
でも、その光景は大して変わることはなく、先程から少しぼやけて見えるだけ。



「いやいやいや………無いだろ、マジで」



そんなこと有り得るのか?
いや有り得てるな。
でもなんで……どこから?
いや、その場まで自分で……



無数に浮かぶ疑問の答えが分かるはずもなく、その間に足はどんどんそこへ向かっていく。
沈むサンダルに入り込んできた砂を気持ち悪く思いながらも、動く足を止めることは出来なかった。
まるで、引っ張られるように。



「ま、じかよ………え、死んでないよな?」



俺の目の前にある……いや、目の前にいるそれまで2メートルといったところで、ようやく足が止まる。
海水に濡れていたらしき黒髪は、眩しい日光を反射して、頬にくっついている。
そして、俺が入学予定の高校の制服を着ている……全身ずぶ濡れの、女が倒れている。
でも、苦しそうな表情ではなく、まるで太陽の日の下で、心地よさそうに寝ているようだった。
それでもやっぱり、無事かどうかは確かめる。
自分の死には無頓着なくせに、他人の死には恐怖を覚える俺は矛盾した生き方をしているだろうか。
そんなことを考えながらその場にしゃがみこんで、声をかける。



「っおい、大丈夫か?」
「………」



返事は帰って来ない。
放っておくわけにもいかず、念の為もう一度声をかける。



「おい、おいっ、大丈夫か?」



すると、瞼が隠していた、宝石のような瞳がゆっくりと現れた。



……や、ば……



「……ん………」



数年越しに桜吹雪を見たときに感じるような、独特な高揚感を思い出させるその声に、胸がドクンと音を立てる。



綺麗すぎだろ……



でも、そこまで長くない髪の毛が少しの幼さを醸し出していて、可愛らしさもある。
そんな姿を前に、平静を装いながらもう一度尋ねる。



「起きたか。大丈夫か?」



そいつは体をゆっくり起こしたかと思えば、俺の顔を見た瞬間、目を見開く。
目力のあるその瞳に圧倒され、ずぶ濡れの女を相手に少し仰け反る。



何だ?
俺の顔に何か………



「え?」



思わず、声が出てしまった。
そいつが、息をすることを忘れそうになるくらい綺麗に……涙を流していたから。
思わず涙を拭おうとした右手を引っ込める。
さっき手をついて砂だらけだし、初対面の相手に勝手に触れるのは良くないだろうし。



「お……おい、どこか痛いのか?」



そう聞くと、少し困惑した顔で首を振りながら



「……ううん………」



と答える。



違うのか?



「じゃあなんで泣くんだよ?」
「………」



そして、下を向いているから分かりづらいが、怖いほどに綺麗な顔でそう言っていた。



「何でもないよ、本当に……」



いや、じゃあなんでそんな顔なんだよ……とツッコミたかったが、そいつの表情をみるととても言えなかった。
儚げで、哀しそうで………そして、滲み出るほんの少しの喜び。
綺麗な顔に無駄のない表情が、より一層美しさを引き立てていた。



ほんと、心臓に悪い……



「………ねん?」
「え?」



しまった。
つい聞き逃してしまった。



「なんて?」
「今って、西暦何年?」



はあ、西暦?
急に何だよ……
不思議に思いながらも答えはする。



「2034年だ」
「何月?」
「4月」
「何日?」



一度に聞けよ、と少し苛立つ。



「1日」



そしてその答えにまたも目を見開いたかと思えば、



「ああ……よか、った………」



囁くような小さな声だけど、ハッキリとそう言いながら、また倒れた。



「お、おいっ、しっかりしろ!」



体を揺すっても、返事はない。



もうこうなったら、ああするしか……



「っ世話のかかるヤツだな……!」



俺はエコバッグを手首に通して、そいつを抱き上げた。
そして、すぐ近くの病院へ全力で走った。







母親には事情を説明して、俺は病院のロビーであいつが出てくるのを待った。



……あーもー、俺何してるんだよ……
まさか、このまま目覚めないとか……無いよな。



先程まで自分と触れていた人間が死ぬかもしれないと思うと、急に自分を包み込む空気の温度が下がった気がした。
実際、アイツに触れて濡れた部分が乾いてきて、少し肌寒い。
横長の椅子に座って待っていると、40歳くらいに見える2人の看護師が、困った顔を見合わせながら何かを話しているのが見えた。



まぁ、大体予想はつく。



俺は看護師達に声をかけた。



「あの……何かあったんすか」



すると、2人の看護師が一斉にこちらを向く。



うお、シンクロ。



呑気にそんなことを考える俺を見て、看護師たちはパアッと顔を明るくする。



「え?ああ……って、あなた!さっき女の子を抱えて来てくれた子じゃない?」
「まぁ、はい、そうすね………」



すると2人は顔を見合わせ、1人が俺の手を取った。



なんだ急に?
……でもなんか、面倒なことになりそうな気が……



「ちょうどいい所に!あの子、制服のどこにも名前が入っていないし、ずっと名前が分からなくて……だから、保護者の方をどうやって呼ぼうか考えてた所なのよ」



ちょうどいいって……俺も保護者じゃないけど。
でも、何故かあいつの事は無視出来ないような気がした。



そう体が、脳が、言っている。
まぁ、どっちにしろ看護師の勢いに気圧されて断れなかったかもな。



面倒くさいけど、俺は2人のうちの1人の看護師に連れられ、2階の病室まで向かうことになった。



204……ここか。



その部屋のドアを開け、中に入る。
ベッドの上には、すーすー寝息を立てながら眠っているそいつの姿があった。
ベッドはひとつしかない。



個室なのか。



ベッドの横に立ち、顔を覗き込む。



……ほんと、



「綺麗な顔してんな……あっ」



ばっか俺何言ってんだよっ。



そう自分に焦りながら、そして看護師の目線を気にしながら、もう一度そいつを見る。
肩のあたりまである綺麗な黒髪が今は乾いていて、窓から入ってくるその風に毛先が揺られている。
驚くほどに色白で、まつ毛の長い整った顔。
まるで本の中から出てきたみたいだ。
そんなことを考えていると、気づいた時にはもう既に自分の口が動いていた。



「こいつは……どうなんですか」



ふと、本能的に放ったその言葉。
どうしても気になったのだ。
何か大きな病気なのか、どうして倒れていたのか。
初対面の人をここまで気にするのは気持ち悪いかもしれないが、そんなこと知るか、とまで思う自分がいたのは何故なのか。



看護師は、俺の言葉に気まずそうにして。



「それが……」
「……?」



その時に気がつく。
その看護師の目が、少し赤いことに。



患者が亡くなりでもしたのか……?



なんて失礼極まりない予想をし、だから頭が混乱して、口ごもっているのかと思っていると。



「……その、分からないんです」



看護師は、やっと答えを口にした。
でも、あまりいい反応が出来ない答えに、聞かなければよかったかと後悔する。



「分からない?」



分からないなんてこと、滅多にないだろ。
じゃあまさか、こいつは何か大変な……
いや、決めつけるのは良くない。
最後まで話を聞こう。



「体とかに何か問題がある訳でもなくて、今だって寝ているだけ。本当、どうして倒れたのか……ストレス、とかなのかしら」



本当に、こいつが倒れた理由は分からないらしい。



ちなみに今、俺こいつの保護者って事になってるんだよな?
歳ほとんど変わらなそうだけど。
ってなると………帰っちゃダメだよな。



これから俺はどうすべきなのか判断すべく、看護師に聞く。



「あの、今日こいつは入院ですか?」



そう問いかけると、ハッとした顔をして、説明を始めた看護師。



「えっとね、今日の7時くらい……って言ってもあと1時間くらいね。7時までに目を覚まさなかったら1日入院ね。でも目が覚めて何も問題が無いようだったら、今日中に帰れるわ」



時間はあるし、問題ないな。
まぁこいつがどうするのかによって、俺の都合も変わる訳だが。
まだ目を覚ましていないので、今の状態ではなんとも言いようがない。



「そうですか、分かりました」
「じゃあ………ちょっと看ていてくれる?私、ちょっとまだ仕事があってね……」



申し訳なさそうに言う看護師。



こんなの断れないだろ……



「ああ、全然大丈夫っす。看ときます」
「本当に?ありがとう!じゃあ、この子をよろしくね」
「?はい、ありがとうございました」



俺は違和感を覚えた。



子供だったとしても、普通患者のことをこの子って言うか……?
まぁ、小児科とかなら有り得る……か。



と思いながらも、ツッコミは入れないことにした。
そこまで気になることでもないし、面倒だし。



そして、看護師達は病室を出て行った。
その出て行く背中を見ている時、



「………さくくん」




と名前が呼ばれた気がして、バッと後ろを振り向く。
でも、そいつは先程と変わらず静かに寝ていた。



まぁ、そんなはず無いよな………目覚めてないし。
それにそもそも名前言ってないし。
座って待っとくか。



そして、俺はベッドの横の椅子に腰掛ける。
病室を見回したり、こいつの顔を眺めたり、髪に触ってみたり。
そうしていると、外は大分暗くなってきて、月が辺りを照らし始めた。
そんな時。



「…………」



そいつは、目を覚ました。
その時、見ず知らずのこいつが生きていることに、何故かすごく安心した自分がいた。
自分自身は死にたいと思っているにも関わらず。
自分の目の前で人が死ななかったからだろうか。



……もし、そうでないなら……?



面倒くさいことを考えながら、俺はそいつに声をかける。



「大丈夫か?ここ、病院だぞ」



あまり状況が把握出来ていないのか、何も答えないそいつ。
そして少し経ったら口が開かれていき、何を口にするのかと不思議に思っていると、そいつは衝撃の言葉を口にした。



「おはよう。それと……久しぶり、朔くん」



体を起こしながら微笑んで放ったその言葉。
それが俺には信じられないことで、頭が混乱する。
こんなに忙しなく頭を動かすのはいつぶりだろう。



こいつ今、俺の名前言ったよな?
それに、久しぶりって……どういうことだ?
無意識に言ったのか。
いや、思い返してみても言ってない。
じゃあ昔の知り合い?
でもこんな綺麗なやつなら、忘れないだろ。
なら、なんでこいつは俺の名前を知ってるんだ?



それが不思議で仕方がなく、敬語じゃなくなっていることに違和感を持たないまま、起きたばかりのそいつに勢いよく身を乗り出して言ってしまった。
鼻が触れるまで、ほんの10センチといったところ。




「なぁお前、なんで俺の名前知ってるんだ?」



その問いの意味をあまり分かっていなさそうで、そいつは布団の一点を見つめている。
そして少し経つと、ハッとした表情を見せ、少し慌てる。



ん?
なんだ?



すると。



「あ、ええっと……勘?みたいな」



そう言って、そいつは両手で顔を覆った。



………どういう反応?




そして気のせいかもしれないけど、手で覆われる前に見えた表情が……とても、悲しそうで。
今にでも泣き出してしまいそうに見えた。
でも、すぐにそいつは手を顔から離し、その時もう既に表情は普通になっていた。



あんな表情が見えたのは気のせいか?
でもそれにしてははっきり……いや、もう考えるのやめよ。



そうして自分で強引に完結させる。



それとなんだよ、勘って。
無理あるだろ。
もうちょっとマシな言い訳……



そんな時、俺はある事を思い出した。



「なぁ、お前名前は?」



名前が知りたかったのだ。
突然砂浜に現れた、綺麗で不思議の多いこいつの名前を。
そう聞くと、少し目を泳がせてその名を口にする。



「唯鈴………遠永唯鈴」



唯鈴………



「名前まで綺麗だな」



すると、唯鈴は勢いよく俺の顔を見て、見つめてくる。



?………って、まさかっ



「口に出して………?」



恐る恐る唯鈴を見ると、



「うん、バッチリ出てた」



と満面の笑みで言われる。



バッチリ撮れたみたいに言うな……っ



「あ~~……」



最っ悪……っ



両手で顔を隠す。
多分、俺の耳は今、リンゴのように赤いだろう。
その様子を見て、唯鈴は首を傾げる。



「どうしてそんな顔するの?私嬉しかったよ!名前が綺麗って言われたの、初めてだったし!」
「~~、そーかよ」



こっちは恥ずかしいだけだけどな。



こうして、俺と唯鈴は少し……いや、結構変な出会いを果たしたのだ。
すると唯鈴は、もう体調には何も問題が無いようで、元気にベッドから降りようとする。



「じゃあ、帰ろっか」



こいつ元気すぎだろ。



「ちょっ……と待て。まだ安静にしてろよ、倒れてたんだから」



そう言って、唯鈴をベッドに座らせる。
唯鈴の体調は本当に大丈夫なのか、無理はしていないのか、そして何を考えているのか分からないのが不思議で、俺は唯鈴をジーッと見る。
すると、唯鈴はニヤッと笑って。



「もしかして……見惚れてる?」
「バッカ違うわ!」



こいつ、恥ずかしげもなく何言ってんだよ……っ
……なんて言うけど、正直少し否めない。



それが少し悔しい。
でも流石に出会って間もない女相手にバカはまずかったか、と心の中で反省する。



「……で、唯鈴、家は?どこ?」



ギクッ



本当に音がしそうなくらい分かりやすく動揺する唯鈴。



「えーと……あっ、そう、海に流されちゃったの」



はあ?



サラッととんでもない事を言う唯鈴。



そんなわけないだろ。



「ボケるならそんな分かりやすく考えるな」



これで騙せるとでも思ってたのか、と不思議に思う。
唯鈴は俺の言葉にムッと怒ったような顔をして、何か一人でブツブツ言い始める。



「だってそんなこと言われても分かんないよ……」



なんで分かんないんだよ。
本当、よく分かんないなこいつ………



今までに見た事のないタイプの人間に、少しの……いや、結構な戸惑いを覚える。



「で、家は?ふざけるのナシだぞ」
「………火事」「ふざけるなって言ったよな?」



またふざけようとするから、俺が咄嗟に阻止する。



こいつ結構面白いな?
でも今は正直に答えてくれた方がいいんだが。



「はい、で、本当は?もうボケには飽きたぞ」



そう言うと、ぷくーっと頬を膨らませる唯鈴。



可愛い……って、ちょっと待て。
俺何考えてんだよ、キモすぎ……っ



自分のことを更に嫌いになる。
こんな形でなるとは思ってなかったけど。
まぁそれは一旦置いといて。
唯鈴の顔に騙されないうちに、早く家の場所を聞き出さなければ。



「そんな顔してもダメだ」



その言葉に、もう通用しないと思ったのか、唯鈴は口を開く。



「無いっぽい的な、分からないみたいな……やつだよ!?」
「勢いで押し切ろうとすんな!」



本人もよく分かってないな?
その証拠にはてなマークまであるぞ?



嘘つくの下手なんだな、と思っていると、唯鈴は何故か自信満々の顔をして。



「でも大丈夫よ。私こう見えて結構体丈夫だし、生きていけるわ」



お前倒れてたんじゃないのかよ……



「生きてけりゃいいってもんじゃないだろ、親は?」「親?」
「ああ」



すると、唯鈴は下を向く。
そして、気まずそうに口を開いた。



「……いないの」
「……あ……」



俺、考え無しに言い過ぎ……



悪い、と言って謝ろうとしたとき。



「ごめんね、困らせちゃって……」



唯鈴が俺よりも先に謝ってきた。



なんで謝るんだよ………今のは絶対、俺が悪かった。



そう、この時の俺は、ただただ申し訳ないと思っていた。
彼女の言う“いない”が、どういう意味の“いない”なのか知りもせず。



「いや、悪い……考え無しに言って」
「ううん、大丈夫。気にしてないから」



家がない。
そして親がいない、か………



今までどう生活してきたのか不思議に思ったけど、さっきヘマをしてしまったから聞くのはやめることにした。
さて唯鈴をどうすれば、と考える。



……これ、いいのか……?



俺はある案を思いつく。



「唯鈴、ちょっと待ってろ」
「?うん、分かった」



そして俺は病室の中で母親に電話をかけ、事情を説明する。
母親も、最初こそ躊躇ってはいたものの、最終的には了承してくれた。



「唯鈴、俺の家に来い」
「え……?」



そう。
俺の考えた案は、俺の家で唯鈴を住まわせることだ。
他に行く宛てないだろうし、また倒れられても困る。



……いや、別に心配なワケじゃないけど。



唯鈴はあまりにも急な展開に目を見開く。



「なんでそんなに驚くんだよ。ほら、行くぞ。あ、そういえば体調悪いとか無いか?」
「大丈夫だけど……」
「なら行くぞ。そういやお前荷物何も無いな。あ、さっきの制服は……」



唯鈴は今病衣を着ていて、部屋の中に制服らしきものは見当たらなかった。



病院で預かってくれているのか……?



とりあえず、唯鈴が目覚めた事を先程の看護師に伝えに行くことにした。



「唯鈴、歩けるか?」
「もう!大丈夫だよっ」



嫌な予感しかしない。



「歩くくらいどうってこと……」



そう言いながらベッドから立ち上がる唯鈴。
でも、足に力が入らないのか、バランスを崩した。



言わんこっちゃない……っ



「あれ」



俺は、3メートルほど離れた場所にいる唯鈴を咄嗟に支えた。



……はぁ、危な。



「……ほら、言っただろ」
「むう」



支えられたはいいけど、ここからどうすれば。



……まぁ、エコバッグくらいしか荷物も無いし。



「ほら、乗れ」



俺はしゃがみ、唯鈴に背中を向ける。
これが一番手っ取り早い。



「乗るってどこに?」
「背中にだよ、見てわかるだろ?」
「あっ、そうだよね。私何言ってるんだろ、あはは……」



本当に悪かったと思ってるのか……?
と言うより……唯鈴、本当に分かってなさそうだったような。



でも、そこからはちゃんと背中に乗った。
唯鈴を乗せて立った時。
思わず、声が出そうになった。
ここまで抱えてくる間も思っていたけど、あまりにも、唯鈴が軽すぎたから。



こいつ、ちゃんと飯食ってんのか……?



今までの唯鈴の生活は知らないが、良い環境でなかったことは確かだろう。
心配に思いながら、少し足早に一階へ向かった。



俺が声をかけたのは、病室まで案内してくれた方の看護師。
その看護師は唯鈴の様子を見るなり安堵の声をあげて、入院しないことがわかるとまだ半乾きの制服を申し訳なさそうに袋に入れて渡してきた。



「元気そうで安心したわ。体調には気をつけるのよ?」
「ご心配おかけしましたっ」
「ありがとうございます」
「ありがとうございますっ」



俺と唯鈴が声を揃えて礼をする。
その様子に、看護師は心の底から安心しているような眼差しを見せた。



病衣のまま帰る訳にはいかないので、唯鈴にはまだ乾いていない制服を着させ、その上に俺が一応持ってきていたパーカーの上着を着せる。
そして、俺と唯鈴は病院を後にした。
帰り道、海を右手に足を進める。
その時、唯鈴が声を上げる。



「わぁっ、海だ!やっぱり海は綺麗だね、朔くんっ」



唯鈴の言葉に、足元に注意しながら一面に広がる海を見る。



もうだいぶ暗いな。



一瞬だけ唯鈴を抱えている左手を離し、腕時計を見る。
時刻は18時40分。
家を出てから2時間が経過しようとしている。



「ん?ああ、そうだな。でも俺はもうこの景色見慣れたぞ」



見慣れたからこそ、自分の絵にしたら、幼い頃の海を訪れた時に覚える高揚感がまた味わえると思い、海に絵を描きに来たのだ。
そこに唯鈴が倒れていた、ということを唯鈴に話す。
お前のせいで俺の予定が崩れたんだぞ、と言いたい気持ちは抑えて。
自分が発案したくせにまだ実感はないけど、これから唯鈴と一つ屋根の下で暮らすのだ。
そんな相手に言ってしまえば、家でずっと気まづい思いをすることになる。
それは避けたかった。



……まぁ、一緒に暮らすのは長くないだろうけど。



唯鈴は何も知らずに、すごい!と言って。
顔は見えないけど、目を輝かせていることは容易に想像できた。



「朔くん絵描くの!?いいなぁ、かっこいいなぁ。私の絵も描いて欲しいなぁ」



……これは、描けということだろうか。
それに……かっこいい、か。



俺の事を何も知らないくせに勝手なことを言う唯鈴に怒りを覚える。
そう、唯鈴は何も知らない。
“アイツら”は事情を知った上で言ってくるから余計怒ってしまうけど、唯鈴はそれすらも知らないのだ。
そんな人間に怒るのは違う。
そう自分に言い聞かせ、なんとか心を落ち着かせる。



それと……私の絵を描いて欲しい、か。



俺が唯鈴の絵を描き、本人に見せる所を想像する。
そこには、太陽のように眩しい笑顔で、ありがとうと言っている唯鈴がいた。



……悪く、ないな。



勝手な期待をして、唯鈴に言う。



「……じゃあ、今度描くか」
「えっ、いいの!?」



耳元で大きな声を出され、少し驚く。
声量考えろよ……と思いながらも、海を綺麗だと言った時よりも声のテンションが高いことに、まぁまぁの嬉しさを覚える。



……そんなに嬉しいのか、俺の絵が。



両親や友達の言葉は疑ってしまったけど、何故か唯鈴の言葉なら信じられる。
そう思うと、まぁまぁどころかただ純粋に嬉しかった。



……くそ、泣きそうだ。



唯鈴にバレないように瞬きを繰り返して、涙を引っ込める。
その間唯鈴は、ずっと嬉しいやらありがとうやら言っている。
……と思ったら。



「せっかくだし、海の近くまで行こうよ!」



と言い出して。



じゃあ行く……
って、危な。
こいつ絶対騒ぐだろ。
さっきまで倒れてたやつにそんなことさせられない。



「ダメだ。お前騒ぐだろ」
「ちょっ、失礼な!さささ騒がないし……」
「いや、嘘つくの下手すぎ………ふ、ははっ。ほんと、嘘つくの下手だなぁ」



次は笑い泣きで涙が出てくる。
笑い泣きなんていつぶりだろうか。
絵を叩かれ始める前からだから、3年ぶりくらいか。



……あれ、今俺、楽しいと思ってる?
唯鈴となら、また絵を………



そう思っても、数々のアンチコメントが頭をよぎる。



いや、俺はもう………



いつの間にか笑顔は消えていた。
そして気づけば、静かに



「倒れたんだから、安静にするんだ」



と唯鈴に言っていた。
唯鈴、落ち込んだかな。
と考えていると、唯鈴は少しの間を開けて、「じゃあさ!」と明るい声を上げた。



「また今度、海に来ようよ!」
「今度?」
「うんっ、私がすっかり元気になった時!約束!」



もうすっかり元気そうだけど?と言いたかったが、安静を理由に止めたのは俺自身だから言えなかった。



「……分かったよ」



来れるかどうか、分からないけど。
口約束なんてそんなものだ。



そんなことを考えている俺とは対極に、唯鈴はまた元気な声で。



「やった!楽しみだなぁ。いつ行こっか、朔くん!ふふっ、朔くんとのお出かけ、楽しみだなっ」



その言葉に、俺は思わず足を止めてしまいそうになる。



……え、そこ?
俺と行けるのが嬉しいのか?



海に行けるからという理由もあるんだろうけど、楽しみな理由の一つに“俺”が入っていることに嬉しくなる。



……なんなんだよ、調子狂う。



唯鈴はそんな俺に気づきもせずに、今度は俺の家や両親を知れることに対して楽しみだと言っている。



唯鈴は、俺の家と両親をどんな風に思うんだろうな。
優しい両親と落ち着くあの家のことはとても好きだ。
だから、素敵だと思ってくれたら嬉しいと思う。



そんな思いを胸に、唯鈴と話しながら家へ向かった。






家に着いたが、父親はまだ帰っていなかった。
一方母親は、唯鈴を見るなり



「まあ、とっても綺麗な子じゃない!私のことは椿って呼んでくれたら嬉しいわっ」



と言って気に入った様子だった。
唯鈴はその母親のテンションに順応するまで1秒もかかっていなかった。



「椿さん、ですね!私、遠永唯鈴と言います。これからよろしくお願いしますっ。ところで椿さん、お肌お綺麗ですねっ」
「んも〜唯鈴ちゃんったら、お口が上手なんだから〜」



普段慣れていない人とあまり話さない俺は、母とすっかり仲良くなれている唯鈴の姿を尊敬せざるを得なかった。
母親は、先程までこれから唯鈴の部屋となる空き部屋を掃除していたらしく、唯鈴を可愛がった後には、すぐ2階のその部屋へと戻って行った。



「悪いな、うちの母親うるさくて……」



お前もだけど。



「うるさくなんてないよ!美人さんで優しくて最高のお母さんじゃん!」



まぁ実際、母には感謝してもしきれない。
最高のお母さんの部類に入るとは思う。



ぽわぽわしててちょっと危なっかしいけどな。



「唯鈴がいいなら気にしないが……」
「全っ然、大丈夫だよ!」



そうして、唯鈴は俺の家に住むことになった。
帰ってきた父さんも、驚きはしていたけど「これから家に帰ってくるのがもっと楽しみになったよ」なんて言っていた。
学校にも説明をし、唯鈴はこれから受験することになった。
勉強する期間を設けることも出来たが、唯鈴は必要ないと言い、翌日には受験をし、まさかの満点を取った。
そのことが驚きで、なぜ受験してもいない学校の制服を唯鈴が着ていたのか、疑問に持つことを忘れていた。



「お前頭良かったんだな……」
「うん、自分でもびっくり!」



と言って本当に驚いた顔をする。



なんで自分で驚くんだよ……ま、いいか。



翌日には、衣類や家具やらを買いに行くことにしたのだが、唯鈴はお金がかかるからいいと言った。
でもそんな訳にはいかないし、母親も「遠慮しなくていいのよ~」などと言っていたので、唯鈴を連れて買い物に行った。
服屋に入り、目の前のスカートを見ながら唯鈴は言う。



「本当に良かったのかな?」



こいつ、まだ気にしてんのか……



「いい加減折れろよ。気にすんなって言ってんだから。それでも唯鈴が気になるなら、将来金稼いで返せばいい」
「将来………」



唯鈴の顔が、一瞬曇ったのは気のせいだろうか。



「うん、そうするっ」



そして、選んだ服を大事そうに持った。



その時の表情が名残惜しそうに見えたのは、これも気のせいだろうか。



そんな疑問を胸に、あまり気乗りしない高校生活が始まる。


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