坂の町で、君と。

2-3 昇悟と明鈴

 明鈴が昇悟に家庭教師をしてもらうのは、隔週金曜日の夕方になった。明鈴は学校の勉強には一応ついていけているので、毎週の必要はないと晴也が判断した。
 晴也は昇悟に、きちんとお金は払う、と言ったけれど。
「もらえないです! 何が出来るかもわからないのに」
 自分から言ったわけではないからと、昇悟はお金を受取ろうとはしなかった。仕事として探して雇ってもらったならともかく、全くそうではないし、勉強の習慣をつけてもらえればいい、と言ったのは晴也だ。
「それなら──晩ご飯、うちで食べるか?」
「勉強終わったらちょうどそれくらいの時間になるし。何かさせて」
 一人暮らしの昇悟にとって、それはありがたい提案だった。
 帰っても部屋には何も無いので、いつもコンビニか外食で済ませていた。近くに実家があるので一瞬迷ったが、隔週末なら、と昇悟は了承した。
「それから、一つお願いがあって」
 川井家のリビングで、明鈴の両親と昇悟は向かい合って座っていた。家庭教師を始める最初の日ではあるけれど、明鈴はまだ学校から帰っていない。晴也は朝から仕事に行ったけれど、昇悟と話をしようと昼過ぎに帰宅した。
「僕と昇悟君の関係、明鈴には黙っといてもらえるかな」
「あ──、はい。それは、こないだ何となく思いました」
「別に隠すことじゃないけどねぇ。知ったら、もしかしたら気にするかも知れんし。私も明鈴には、知り合いの息子さんとしか言ってないし」
 晴也と昇悟の関係を話すのは、明鈴にはまだ早いと思っていた。
 もちろん、中学生に理解できないことではないけれど。
 雪乃と出会う前の晴也のことを、明鈴に話したことはなかった。晴也にとっての辛い出来事に、昇悟が関係していたからだ。
「あ、もちろん、昇悟君も気にしなくて良いからね」
「はい……」
「あれから十五年か……。ははは、あんな小さかった昇悟君が、もう二十歳かぁ。昇悟君、あのとき、僕が言ったこと覚えてる?」
「確か、元気な子になれ、って……。小さいときのことはあまり覚えてないんですけど、あの日のことだけは覚えてるんです。母親にも、あのお兄ちゃんのこと忘れたらダメだって、あ、すみません、お兄ちゃんって」
 二人が初めて会ったとき、晴也は三十歳、昇悟は小学一年生だった。晴也もまだ独身で若くはあったので、昇悟の母親がそう教えたらしい。
 今はそう呼ばれる年齢ではないな、と笑っているとき、明鈴が帰宅した。昇悟が来ていることは玄関の靴を見てわかったのだろうか、姿を見ても特に驚かず、こんにちは、と挨拶をした。

 明鈴が着替えるのを待って、昇悟は二階へ上がった。部屋に入ることに明鈴は戸惑っていたけれど、昇悟が入るのはこれで二回目だ。
「別に散らかってないし、気にしないから大丈夫だよ」
 明鈴は昨日のうちに部屋を片付けたし、雪乃も朝から掃除機をかけていた。汚いところはないと思うけれど、それでも出会って間もない男性を部屋に入れるのは明鈴には勇気が要った。
「先生、今日は何するんですか?」
「何が良い?」
 明鈴の質問に、昇悟はふわっと笑った。
「今日は特に何も考えてないよ。何も持ってきてないし。明鈴ちゃんに簡単に自己紹介しようかなと……。明鈴ちゃんのことも教えてもらわないと、何も出来ないし」
 家庭教師と聞いて明鈴は少し構えていたけれど、昇悟は反対に妙にリラックスしていた。部屋の床にカーペットを敷いていたので、足を崩して座った。昇悟に促され、明鈴も床に座った。
「まず、俺は先生じゃないから。希望してなったわけじゃないし、ちゃんと出来るかもわからない。努力はするけど──。普通に名前で呼んでくれたら良いよ。あ、俺の名前、小野寺昇悟。昇悟で良いよ」
「昇悟……君。さん?」
「ははは、君で!」
 昇悟が妙に明るかったのは、明鈴の緊張を解すためだろうか。昇悟が何度か笑っているうちに明鈴の表情も和らぎ、やがて普通に話せるようになった。昇悟が敬語を使わなくて良いと言ったので、明鈴は少しだけ彼に親しみを覚えた。
「こないだもちょっと話したけど、俺は大学を中退した。でも、高校はちゃんと勉強してたから、明鈴ちゃんに教えるくらいはできると思うよ」
「うん……。昇悟君は、何が得意?」
「何だろう? 特に嫌いなのは無かったけど、英語と数学かな。バイト先にも外国のお客さんが来るから、今でも英語は勉強してるし」
 小さいときは特に気にしなかったけれど、最近は小樽運河周辺には外国人観光客が目立つようになった。駅やお店に英語の看板が増えたし、知奈の父親も家で英語を勉強しているらしい。
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