花と共に、あなたの隣で。
12.静かに揺れるパンジー
始業式が終わり、3学期がスタートした。
冬休みを挟んだおかげか、以前のような目立つ嫌がらせは無い。
いつも通り教室で1人過ごしていると、やたら戸野くんの視線が気になった。話し掛けてくるわけではないけれど、視線だけがこちらに飛んでくる。それがとても気持ち悪かった。
3学期初日から、5限目は体育だ。
久しぶりだからドッヂボールでもするぞー、と声を上げた佐藤先生。いつも通りを装っているようだったけれど、その表情はどこか暗く、調子も良さそうでは無かった。
キャッキャと楽しそうな声を上げる同級生を遠目に眺める。やっぱり体力が落ちている私は正直立っているだけでも少し辛い。
ドッヂボールには参加せず、私はこそっと体育館の外に出た。そして渡り廊下に座り、庭を眺める。
あの大雨の中行われたクラスマッチの日。あの時もドッヂボールには参加せず、ここから紫陽花を眺めたことを思い出し、少しだけ頬が緩んだ。
「……森野」
「ん?」
背後に立つ佐藤先生。「遊んでいるところを見ておかなくて良いの?」と聞くと、「あれは遊びじゃない、試合だ」と割と真顔で返答された。
それが面白くて吹き出すように笑うと、先生は同じように私の隣に座り庭を眺め始めた。申し訳程度に植えられているカラフルなパンジーが、ほんのり雪を被って揺れている。
「今日は“お腹が痛いから見学しています”って言わないの?」
「言いませんよ。今日はお腹痛くないので」
ふふっと笑い合い、パンジーをまた眺める。
こうやって先生と2人でいるところを見られるから、いじめられるのだろう。そう思いながらも、やっぱりこの時間を失いたくないという気持ちの方が勝る。
「森野……。あの時も、こうやって並んで紫陽花を眺めたね」
「……はい」
「だけど——……その記憶も、もうすぐ消えてしまうのかな。ここで過ごしたこと、全部忘れてしまうのかな」
「……」
「……なんて、お前の方がずーっと前から、そういう気持ちで過ごしていたのにな。ごめん」
冷たい風が吹き抜けていく中、同級生たちの楽しそうな声がよく響く。隣に座っている佐藤先生は、小さく溜息をついて一筋の涙を零していた。悲しそうな様子の先生に対して掛ける言葉が見つからなくて、また庭に向かって視線を向ける。すると先生は涙を拭いながら小声で言葉を継いだ。
「森野が高校で友達を作らないって話していた時の心情が、今の俺なら前より理解ができる。森野は本当に大人だよ。そして、本当に強い。薔薇の件の時も思ったけれど、森野は本当に強い人だ」
「……」
「俺、いつ忘れるか分からないからさ。覚えているうちに伝えておこうと思って」
それだけを告げて、先生は立ち上がり体育館の中へ戻って行った。ピーッと首に提げていた赤い笛を強く吹き、「オラッ、後ろも参加しろよ!!」と大きな声で笑っている先生。不意に飛んできたボールを上手にキャッチして、クラスの中でも目立つ方の男子に向かって投げつける。「お前も1人くらい、当ててみろ!」と煽るとその男子は小さく頷いて、敵の男子に向かってボールを投げた。
こんなにも楽しそうなのに。こんなにも生き生きとしているのに。
運命とは、時に残酷だ。
佐藤先生も同じ病気にかかったと聞いてから、実は改めて“記憶能力欠乏症”について調べた。ネットで調べればいくらでも出てくるのに、その現実と向き合いたくなくて、私は私の病名について詳しく知ろうとしなかった。
“記憶能力欠乏症”————……比較的新しい病気で、白血病や認知症と間違われることもある。診断がなかなか難しく、脳神経内科医でなければ判断することが難しい。先天性と後天性があり、先天性は生まれて直ぐの血液検査で異変が出る。厳密に言えば、やはり白血球の数値が高い。そこから色々な検査をして、様々な病名と比較して……最終的に“記憶能力欠乏症”だと診断される。こちらは進行が非常にゆっくりで、ある時急に白血球の数値が急増する。それが、余命宣告のサイン。それが10代のうちなのか、20代なのか、それとも50代なのか。人によっては様々で、余命宣告がされないまま人生を謳歌して亡くなった患者も過去には居たそうだ。
一方の後天性は、何の前触れもなく白血球の数値が急増するらしい。そこで大抵の人は異変に気付く。そして体力の衰え、記憶力の低下、そして……記憶の欠乏。少しでもその兆候があると、“記憶能力欠乏症”だと診断を下される。
後天性はとにかく進行が早いのが特徴。診断名が下されると同時に余命宣告され、早い人は1か月。長い人で1年。あっという間に病気が進行して死にゆくらしい。
しかも最近の研究によると、後天性として発症する人の多くが20代~30代の男性だとか。年々患者は増加傾向にあるものの、病気にかかる直接的な要因や予防方法などはまだ分かっていない。
「……」
佐藤先生には、長生きして欲しい。
ふとそう願ってしまうのも、やはり私が先生こと好きだからなのだと思う。
「ねー、せんせー!! 一緒に参加してよー!!」
「あぁ!? 俺はお前らがちゃんと参加しているか確認をする義務があるんだ! 呑気にその輪の中で遊んでられねぇーよ!」
「あ、先生遊びって言った!!」
男女関係無く囲まれる先生の姿を見て、ジワッと涙が滲んできた。
佐藤先生が、いつまでも“先生”でいられる世界線ってどこだろう。
つい空想に更けてしまう意識の中で、またピーッという笛の音が聞こえて来た。「はーい、試合終了! もう怠いから、このまま解散!! お疲れ~!!」と言って、適当に授業を閉めていた。