花と共に、あなたの隣で。
私は担任に日誌を提出し、先生は帰宅の準備をする。「玄関のところで待っていて」という指示に従って1人玄関に向かうと、1年の靴箱付近に戸野くんが立っていた。「まだ靴があったから待ってた」という恐ろしい言葉を口にして、少しずつ私の方に歩いてくる。
戸野くんの顔に感情が見えず、とにかく怖い。どうして戸野くんがそのような表情なのか全く理解できないが、ただこの状況は非常にまずいと思った。
「職員室で何をしていたの」
「別に、戸野くんには関係無いって」
「やっぱり、佐藤先生なの?」
「だから……関係無いって!!」
大きな声で牽制するように叫ぶと、一瞬だけ戸野くんが怯んだように見えた。その隙に靴を履き替え外に出そう。そう思い体を動かすと、後ろから低く冷たい声が飛んできた。それと同時に、他に誰もいない静かな玄関からは冷たい風が入り込み、全体的に冷たい空気感に覆われる。
「戸野、この間から何だよお前」
「……佐藤先生」
睨みつけるような視線を戸野くんに向け、「さっさと帰れよ」と更に冷たく言い放った。先生は自身の靴箱からスニーカーを取り出し、スリッパをしまう。その様子を不満そうに戸野くんが眺めていた。
「……何って、こちらの台詞です。佐藤先生。先生がどういうつもりで森野と関わっているのか知りませんけど、同情で気に掛けているだけなら、今すぐにでも止めて下さい。森野は先生のせいでいじめられているし、辛い思いをしているんだ。森野の病気のこと、何も知らない人が同情して良い物ではありません……!!」
戸野くんの言っている意味が分からずに呆然と立ち尽くしていると、先生は「バーカ」と一言呟いて鞄をその場に置いた。そして戸野くんの方に歩み寄り、キッチリと結ばれている制服のネクタイを手に取り引っ張る。
「お前こそ、森野の何を知っているのか知らないし、森野のことをどう思っているのか興味も無いけどさ。病気のことは当事者にしか分かんねぇよ。当事者同士だからこそ、共有できる感情もあるだろ」
「……どういうこと……」
「つまり。同情するなとはこちらの台詞だ。俺は後天性の“記憶能力欠乏症”であり、余命はあと1年も無い。徐々に衰えていく体。それがどんな感じなのか、お前には一生分かんねぇだろ」
ネクタイから手を離し、大きく溜息をついた先生。戸野くんは驚いたような表情のまま固まってしまった。
しかし、まさか先生が戸野くんにカミングアウトするとは思わなかった。病気を他人に話すのは勇気のいること。私自身もそうだから余計になんだけど。あまりにも普通に、呼吸をするようにそう言った先生は格好良く見えた。
「お前がどういう理由で俺と森野を引き離そうとしているのかは知らん。誰の差し金かも俺は知らん。けれど、お前に病気のことを語る資格は無い」
「違う……。僕の兄貴は“記憶能力欠乏症”で亡くなったんだ!! だから、誰よりもその病気のことを知っているつもりだし、森野のことを誰よりも理解できると思っている!」
「……バーカ。なら尚更だ。兄貴は兄貴だ。お前は病気の当事者ではない」
帰るぞ。と私の肩を叩き歩くよう促す。靴を履き替えて先生の後を追って玄関を出る途中、ふと視界に入れた戸野くんは酷く悲しそうな表情で一点を見つめていた。