早河シリーズ序章【白昼夢】
8月10日(Thu)午後5時
横浜市内の医科大学の廊下をスリッパの音を鳴らして白衣の女性が歩いている。女は慣れた足取りで廊下の角を曲がり、突き当たりの部屋の扉を開けた。
「待たせてごめんねー。記録してた実験データがバグっちゃって。参った参った」
陽気な笑い声と共に室内に入ってきた木村菜摘《なつみ》は手に持つファイルを無造作にデスクに置き、後ろでひとつに束ねていた髪をほどいた。
「昨日、お母さんに電話で聞いた時はびっくりした。まさかあんたが殺人事件に巻き込まれるなんてねぇ。おまけに土砂崩れで閉じ込められるってあんたが好きなミステリーの世界じゃない。えっとなんだっけ、クロスワードサークル……? じゃなくて、嵐山の山荘もの? だっけ。隼人は高校時代からまぁ、やんちゃなことのひとつやふたつあったけど、ついに殺人事件まで関わるとは、姉ちゃんびっくりよ」
そこまで一気に話し終えた菜摘はソファーに座る弟、木村隼人を見た。
菜摘は隼人の四歳年上の姉。彼女はこの医科大学の研究室で細胞の研究をしている。
菜摘は冷蔵庫から出したアイスコーヒーをグラスに注いで弟に渡す。姉から受け取ったアイスコーヒーで喉を潤し、隼人は大きく溜息をついた。
『一応、訂正しておくとクロスワードサークルじゃなくてクローズドサークルで、嵐山じゃなくて嵐の山荘もの。嵐山じゃ京都になっちまうだろ。……現実は小説とは違った。名探偵は存在しないし救いもない。すっげー後味悪い。結局、俺は何もできなかった』
呟いた隼人の独り言を聞いた菜摘が目を細める。
「隼人……少し感じ変わったね」
『変わった?』
「前より雰囲気が柔らかくなったかな。それにさっきの何もできなかったって言葉は殺人事件に遭遇したからだけじゃないよね?」
雰囲気が柔らかくなったと指摘されても隼人にはピンと来ない。ただ思い当たることはあった。
『好きな女ができた』
女遊びばかりしてきた弟の告白に姉は微笑む。部屋に入ってここにいる隼人を見た時から彼女にはそんな予感がしていた。
菜摘は話の先を目で促し、隼人はサークル合宿の宿泊先のペンションで美月と出会ったこと、そこで起きた殺人事件と事件の結末を順を追って話した。
横浜市内の医科大学の廊下をスリッパの音を鳴らして白衣の女性が歩いている。女は慣れた足取りで廊下の角を曲がり、突き当たりの部屋の扉を開けた。
「待たせてごめんねー。記録してた実験データがバグっちゃって。参った参った」
陽気な笑い声と共に室内に入ってきた木村菜摘《なつみ》は手に持つファイルを無造作にデスクに置き、後ろでひとつに束ねていた髪をほどいた。
「昨日、お母さんに電話で聞いた時はびっくりした。まさかあんたが殺人事件に巻き込まれるなんてねぇ。おまけに土砂崩れで閉じ込められるってあんたが好きなミステリーの世界じゃない。えっとなんだっけ、クロスワードサークル……? じゃなくて、嵐山の山荘もの? だっけ。隼人は高校時代からまぁ、やんちゃなことのひとつやふたつあったけど、ついに殺人事件まで関わるとは、姉ちゃんびっくりよ」
そこまで一気に話し終えた菜摘はソファーに座る弟、木村隼人を見た。
菜摘は隼人の四歳年上の姉。彼女はこの医科大学の研究室で細胞の研究をしている。
菜摘は冷蔵庫から出したアイスコーヒーをグラスに注いで弟に渡す。姉から受け取ったアイスコーヒーで喉を潤し、隼人は大きく溜息をついた。
『一応、訂正しておくとクロスワードサークルじゃなくてクローズドサークルで、嵐山じゃなくて嵐の山荘もの。嵐山じゃ京都になっちまうだろ。……現実は小説とは違った。名探偵は存在しないし救いもない。すっげー後味悪い。結局、俺は何もできなかった』
呟いた隼人の独り言を聞いた菜摘が目を細める。
「隼人……少し感じ変わったね」
『変わった?』
「前より雰囲気が柔らかくなったかな。それにさっきの何もできなかったって言葉は殺人事件に遭遇したからだけじゃないよね?」
雰囲気が柔らかくなったと指摘されても隼人にはピンと来ない。ただ思い当たることはあった。
『好きな女ができた』
女遊びばかりしてきた弟の告白に姉は微笑む。部屋に入ってここにいる隼人を見た時から彼女にはそんな予感がしていた。
菜摘は話の先を目で促し、隼人はサークル合宿の宿泊先のペンションで美月と出会ったこと、そこで起きた殺人事件と事件の結末を順を追って話した。