早河シリーズ序章【白昼夢】
「ママー!」

 父親と遊び終えて満足したのか、満月の夜に産まれた少女が彼女の元へ走ってくる。少女は母親に抱き付いた。

「ママ、おじちゃんと、なんのおはなし、してたの?」
「美月のお話をしていたのよ。それでは私達はこれで」

夫がこちらに近付いてくる姿を確認した彼女は立ち上がった。

『お気をつけて』

俺はまたそれしか言えず、彼女の夫が娘を優しく抱き上げる様子を見ているだけ。

「おじちゃんバイバイ」

少女が俺に向けて手を振っている。天使のような優しい笑顔はやはり彼女とよく似ていた。

『美月ちゃんバイバイ』

俺も少女に手を振り返し、彼女達を見送った。

『これでよかったんだよな……』

 彼女の姿が遠ざかっていく。彼女が幸せそうでよかった。
優しい夫と可愛い娘、そしてまた彼女は新しい命を宿している。彼女が幸せでいてくれるのならそれでいい。

『俺達また会えたんだな。結恵……』

俺は“彼女”の名前を呟いて軽く頷き、彼女達とは反対方向に歩き出した。

 だから彼は知らなかった。彼が歩き出したすぐ後に彼女が後ろを振り返っていたことを。

***

──そして私は後ろを振り返った。
遠ざかっていく彼の背中はあの時よりも一回り痩せていて、だけどその広い背中の温もりを私は知っている。
また……会えたね。

『結恵?』
「ママー?」

 私の行動を不思議に思った夫と娘が首を傾げている。
これは私だけの秘密の物語。誰にも読むことのできない私だけの秘密のラブストーリー。
私は静かに心の本を閉じて鍵をかけた。

「なんでもないの。行こっか」

そして私達は再び歩き出した。

 これでよかった。そう思うことに嘘はない。守りたいものがあったから。

だけど本当はね、大切なものすべて捨ててでも貴方の傍にいたかった。
それが許されるのなら、貴方とずっと一緒にいたかった。

 暖かい春の日差しを受け、ピンク色に染まる桜並木は明日への一歩を踏み始めた彼と彼女を優しい表情で見送っていた。

 彼女の名前は浅丘結恵《ゆえ》。旧姓は沖田。娘の名前は浅丘美月《みつき》

これは母と娘の物語──。


最愛の人が殺人犯だったなら、一緒に逃げようと言われたなら……

あなたはどうしますか?



Dearest (白昼夢)ーENDー
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