早河シリーズ序章【白昼夢】
[東・206号室 隼人の部屋]

 バスローブを纏った里奈は濡れた髪を拭きながらカーテンを少しだけ開けた。
視界が暗くて何も見えないがあの闇の向こうには夜の海が潜んでいる。何もかもを飲み込んでしまう雨で荒れた夜の海が……。
急に怖くなって里奈はカーテンを強く引いた。

 隼人はベッドの背にもたれて携帯電話をいじっている。学生側では隼人の部屋だけがベッドが二つあるツインルームだ。

隼人が持参した携帯型音楽プレイヤーからは男性の声の洋楽が流れていた。アップテンポなメロディに乗せた早口な英語の歌詞が何を言っているのか里奈には聞き取れない。

「ねぇ……本気なの?」
『何が?』
「あの美月って子のこと。まさか本気であの子を口説いてるつもりじゃないでしょ?」
『まさか。暇潰しにからかってるだけ』

 里奈と話をする時も隼人は携帯から目を離さない。里奈はベッドに腰掛けてショートカットの茶色い髪にトリートメントオイルを揉み込んだ。人工的な桃の香りが室内に広がる。

「だといいけど。なぁんか、あの子相手だと隼人いつもとちょっと違う気がした。ムキになってるって言うか」
『俺は相手がどんな女でも変わらねぇよ』

 隼人はいつもポーカーフェイス。誰に対しても本心を見せない、内側の感情を悟らせない。
彼が本当は何を考えているのかどれだけ身体を重ねてもわからないことがある。

今も頻繁にやりとりしているメールの相手は誰? 他の女? 新しい女?
隼人には今は何人の女がいて、自分は何番目の位置にいるのか、二人の関係の今後……。

本当は聞きたいことが山ほどあるのに切り出せない。この関係の崩壊が怖いから。隼人を失いたくないから。

 隼人は携帯を無造作に置いてベッドに腰掛ける里奈の腕を引き、彼女を抱き寄せた。キスを繰り返す間に里奈のバスローブの紐がするりとほどけてバスローブが彼女の身体を離れる。

甘ったるい匂いを髪から漂わせる里奈と隼人はベッドにもつれ込み、二人だけの世界に溺れていった。

 時計の針が午後11時を示す頃、ペンションの呼び鈴が鳴り響いた。

「誰かしら。こんな時間に」

冴子が玄関の扉を開けるとそこにはずぶ濡れになった中年の男が立っていた。

『夜分に申し訳ありません。東京からこちらに来ていたのですが、帰り道に車がパンクしてしまいまして……。こんな時間ですし雨で立ち往生しているところにここのペンションの看板を見つけたんです。ご迷惑は承知でもしお部屋があるなら今晩こちらに泊めていただけませんか?』

男は玄関先でスーツについた水滴を手で払い、沖田オーナーが差し出したタオルで顔を拭いた。

『それは大変でしたね。部屋はご用意できます。どうぞ泊まっていってください。冴子、すぐに部屋の準備を』

沖田は嵐の夜に現れた来客を快く迎え入れた。

 不意の来客がペンションを訪れた時、真っ暗な空には雷が轟いていた。それは悪夢の始まりを告げる鐘。

 夏の嵐の夜、それぞれの思惑が交差し悪夢へ誘う。
それは夢か 現実か。
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