早河シリーズ序章【白昼夢】
 ふらふらとした足取りで美月がダイニングに姿を現した。不運にも死体の第一発見者となってしまった美月はペンションに戻ってから今までずっと自室で眠っていた。

「あら、起きたの?」

冴子がダイニングに入ってきた美月に気付いた。

「気分はどう?」
「もう平気」
「お腹空いてない? 何か作ろうか?」
「パンケーキ食べたい。いちごと生クリーム乗せたやつ」
「ふふっ。わかった。少し待っててね」

美月のリクエストのパンケーキを作りに冴子がキッチンに駆けていく。
沖田夫妻に子供はいない。姪の美月は夫妻にとっては娘同然なのだ。

 美月はキッチンのカウンターを机代わりにして、冴子が焼いたパンケーキの上に生クリームといちごをトッピングした。

「いただきまーす」
「召し上がれ」

冴子も紅茶を淹れて姪と共に束の間のティータイム。今日は朝から竹本の一件で慌ただしく、休息をとる暇もなかった。

「大変なことになっちゃったね」
「そうね。さっきも刑事さんが話を聞きに回っていたわ。えっと……何て言うの? 事情……」
「事情聴取?」

推理小説が愛読書の美月には馴染み深い単語だ。叔父の沖田は推理小説愛好家でも妻の冴子はそのジャンルには疎い。

「そうそう、皆さんのお部屋を回って個別に話を聞いていたみたいよ」
「土砂崩れのニュース見たよ。警察、こっちに来れないの?」
「復旧を待たないと難しいようね」

美月と冴子は同時に大きな溜息をついた。

「お掃除してくるね。美月は今日は手伝いはいいから、ゆっくり休んでいなさい」
「はぁい」

 冴子が出ていってひとりになったダイニングでは壁時計の針の音が大きく聞こえる。針は午後2時半を回ってもうすぐ3時。
いちごと生クリームがたっぷり乗ったパンケーキを美月は完食した。

(あんなもの見た後なのにお腹は空くんだなぁ)

 ガレージで見た光景はもう思い出したくない。推理小説が好きな美月でも現実の殺人事件を見るのはいい気分ではない。

(朝を迎えられることは当たり前じゃないって、よくお母さんが言ってるけどこういうことなんだよね)

 人は、生きていることに慣れると自分が生きていることさえも忘れてしまう。人の死を目の前にして初めて、自分が生かされていると知る。

 食べ物が食べられること、暖かい場所で眠れること、会話ができること、会話ができる相手が側にいること、生きて朝を迎えられること。
当たり前のことなど何一つないのに、それを忘れてしまうのが人間だ。

 パンケーキの皿を洗って食器棚にしまい、グレープフルーツジュースをグラスに注いで美月はダイニングに戻った。
ダイニングにはいつの間にか隼人がいて、彼は設置されたウォーターサーバーの水を飲んでいた。

『美月ちゃん起きたんだ』

美月は隼人を一瞥しただけで軽く頭を下げて椅子に座る。水を入れたグラスを持って隼人も美月の隣に座った。

『少しは気分よくなった?』
「少しだけ……」
『でもまだ元気ないね。俺が慰めてやろうか?』
「けっこうです」

顔を背ける美月の長い黒髪に隼人は指を這わす。サラサラとした質感の触り心地のいい髪だ。髪から伝わる隼人の指の感触がくすぐったくてなんだか恥ずかしい。

『とことん嫌われたな。ねぇ、佐藤さんとはどうなったの?』
「えっ……」

驚いてこちらに顔を向けた美月に隼人はキスをした。
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