早河シリーズ序章【白昼夢】
 東側廊下の奥、206号室の扉が開いた。そこは隼人の部屋だ。
部屋を出てきた隼人を見て麻衣子は慌てて涙を拭う。

『麻衣子? どうした?』
「……なんでもない」

 麻衣子は自分の部屋、209号室に鍵を差し入れる。狼狽して震える手がドアノブを掴むのと同時に背後に立つ隼人が麻衣子の腕を掴んだ。

『里奈と何かあった?』

どんなに視線を避けても隼人には無駄な抵抗だ。彼は一目で麻衣子の異変に気付いた。
扉の前に佇む二人。中途半端に開いた209号室の扉は鍵穴に鍵を差したまま静かに閉じた。

(お願い……優しくしないで)

無言でうつむく麻衣子の頭に優しく乗せられる大きな手。隼人の、手のひらだ。

『無理するなよ。お前って案外強がりだからな』

ねぇどうして?
どうしていつもそうやって優しくするの?
また、離れられなくなるんだよ?
また、好きになっちゃうんだよ?
もう限界だよ

「……隼人」

 廊下を行きかけた隼人の背中に彼女は抱きついた。隼人は動きを止め、腰に回された麻衣子の手に触れる。

「……好き。隼人が好き」

ついにその言葉を口にした麻衣子の手を隼人は優しく握りしめた。言葉も触れる手も、彼のすべてが優しい。

『知ってる。そんなのとっくに気付いてた』

腰に回る手をほどいて麻衣子と向き合う。大粒の涙を流す麻衣子はすがるように隼人の胸元に顔を埋めた。

「隼人のものにして……」
『それ、意味わかって言ってる?』
「馬鹿にしないで。私だってそれくらい知ってる」
『じゃあ尚更《なおさら》だ。どうして俺が今までお前に手を出さなかったと思う? 麻衣子は俺の幼なじみだから……家族同然の存在なんだよ』

麻衣子の震える肩を掴み、無理やり彼女の顔を覗き見た。涙で濡れた瞳が悲しみに揺れている。

「それが苦しいの。私は隼人が好きなのに隼人の彼女にはなれない。家族……みたいなものだから嬉しいのに辛くて、こんなに苦しいことないよ」

家族同然。麻衣子にとってその言葉は嬉しくもあり悲しみを孕む言葉。
こんなに近いのに。近すぎるからこそ、遠い。

『ごめん。お前を彼女にはできない』

隼人の苦しむ顔は見たくないのに。
麻衣子の苦しむ顔は見たくないのに。
お互いにお互いが大事で、かけがえのない存在であることは事実なのに。

好きな気持ちは一方通行。
上手くいかないものだ。

「うん。わかってる。私の方こそ取り乱してごめん。もう大丈夫」

 大丈夫じゃないのに大丈夫って、いつから言うようになったかな。平気じゃないのに平気なフリして、だけどきっとあなたには見抜かれているね。
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