早河シリーズ序章【白昼夢】
 それからどのくらいの時間が過ぎたのだろう。時間にすれば数分だったのかもしれない。けれど美月と佐藤には長い長い永遠に思えた。

「もう……いい。ごめんなさい」

涙声の美月は伏せた顔を上げずに扉に足を進める。

 このまま彼女が自分から離れていくのならそれでいい。それが彼女のためだ。

それは越えてはならない境界線
堕ちてはいけない地獄
堕ちれば二度と這い上がれない底無し沼……

 しかし華奢な彼女の肩が震えているのを見た瞬間、佐藤はもう這い上がれない場所まですでに堕ちていたのだと悟る。
彼は美月の細い腕を掴んで抱き締めた。

『好きに決まってるだろ』

一度言葉にしてしまったものは取り消せない
後戻りはできない 引き返せない

 泣き腫らした赤い瞳で美月は佐藤を見上げる。こんなになるまで彼女を泣かせてしまった。
大事な、大切な君を……

もう、どこまでも堕ちていこう
もう、離せないから…………

 夏にしては肌寒い夜。昼間に降っていた雨はいつの間にか止み、空にはもうすぐ満月を迎える白くて丸い月が輝いていた。

 身に纏うものすべてを捨て去った彼と彼女は本能に従い相手を求める。
恥ずかしがる美月の要望で部屋のあかりはベッドサイドの間接照明のみ。それでも見えてしまう剥き出しの身体を隠しても、佐藤に与えられる甘美な刺激が美月の理性を破壊した。

 最後の一線を越える手前で佐藤が動きを止めた。

『怖い?』
「怖いけど……佐藤さんだから……怖くないよ」

 越えていく最後の一線。そこから先はもう戻れない。

坂道を転がり落ちる石ころのように加速度だけが増していき、吐息と吐息が混ざり合って、彼と彼女はひとつになった。

(まただ……またあの香り……。そう、あれは……)

彼の体温を感じて美月の中でその想いは少しずつ確信に変わる。

(このまま時が止まればいいのに……)

佐藤の頬に触れる。温かいぬくもり。彼の香り……。

 額に浮かぶ汗、切なげに眉を寄せる表情、繋がりから与えられる初めての痛みも初めての快楽も、彼とのこの時間の全部がいとおしい。

(わからない。どうして? だからなの? だからわざと冷たくして私を遠ざけようとしたの?)

 繋がれた手と手、そこに赤い糸はあるのか、ふたりにはわからない。

『美月……愛してる』

優しく囁かれた愛の言葉。

(私も愛してる。大好きだよ。ねぇ、だからどうして?)

心に浮かぶ言葉を言えないまま、美月は佐藤との愛に溺れていく。

加速する快楽は美月には未知の世界
甘い声で囁かれて、甘い声で鳴いて
そのうち何も考えられなくなって
ふたりは快楽の海に堕ちて沈む

 それは永遠と絶望を行ったり来たりの幻想の一夜──。
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