早河シリーズ序章【白昼夢】
[西・205号室 上野の部屋]

 午前6時過ぎ。上野恭一郎は歯ブラシをくわえたまま、ノックの音に応じた。
廊下に立つ美月を部屋に招き入れ、手で窓際の籐の椅子に座るよう促す。美月は上野に一礼してそこに座った。

美月から内線がかかってきたのがつい数分前。事件の事で大切な話があると言う彼女が内線の直後、部屋を訪れてきた。

『待たせてごめんね』
「私の方こそ、朝早くにごめんなさい」

 洗顔を終えてタオルで顔を拭きながら戻ってくる上野に美月は恐縮して頭を下げた。

 205号室のシングルルームには椅子が籐の椅子の一脚しかない。
上野はベッドに腰かけ、籐の椅子に座る美月の様子を窺う。彼女はとても緊張しているように見えた。

『事件の事で話って何かな?』
「……ゴミ袋に入っていたレインコートのことです」

 ここに来てもまだ美月は逡巡していた。
ゴミ捨て場に無造作に捨てられていた犯罪の証拠品を見つけたあの時から感じていた違和感。

(言わなきゃ。言わなきゃダメなのに……)

何が正義?何が正しい?

「最初に袋を開けた時に香りがしたんです。血の臭いに混ざって一瞬でしたけど香水のような香りがしました」
『美月ちゃんはその香りに覚えがあるんだね?』
「……はい」

一呼吸置いて美月は頷いた。

 覚悟を決めた、強い目が上野を見据える。上野は美月の強い眼差しを受け止めてひとつ頷く。彼は立ち上がり、薄暗い部屋を覆うカーテンを開けた。

『もしかしてそれは佐藤瞬さんの香りかな?』
「刑事さんどうして……」

朝の光に目を細める上野の横顔が哀しげに微笑していた。

『昨日の僕の話は美月ちゃんも聞いていたよね。4年前に自殺した片桐彩乃さんのこと』

 美月が首を縦に振る。上野はそれを彼女に見せるべきか否か思案しつつ、手元にある自分の携帯電話の画像フォルダを呼び出した。

『片桐彩乃さんには婚約者がいたんだ。その婚約者が佐藤瞬さんなんだよ』

上野の携帯には昨日、部下の早河刑事から送られた画像のデータが入っている。片桐彩乃の両親から入手した4年前の彩乃と佐藤の写真だ。

「婚約者……佐藤さんが……」

今までバラバラに散っていたパズルのピースのような疑問がすべてひとつに繋がった。

(だから佐藤さんはあんなに哀しい顔をして……)

上野は彩乃と佐藤が二人で写る写真を美月に見せることは控えて、携帯電話をスラックスのポケットに押し込んだ。写真の中で笑い合う恋人たちの姿を美月は見ない方がいい。

「じゃあ佐藤さんには竹本さんを殺す動機があるんですよね」
『そうだね。美月ちゃん、君はまさか佐藤さんのことを?』

上野の問いに美月は伏せていた顔を上げた。

「はい。私は佐藤さんが好きです」
『……そう』

 それは言ってしまえば十代の少女の危うい恋心。人の恋路に土足で踏み込むような無粋な真似はしたくない。
しかし今回は話が別だ。

上野は再びベッドに腰かけて美月と向かい合った。思春期の少女の恋心に接することは犯罪者の取り調べよりも気を遣う。

『美月ちゃんは佐藤さんにどうして欲しい?』
「私は……」

どうして欲しい? それは……
愛する人が殺人犯ならどうするのか。

(私の答え……私の正義……)

 美月は呼吸を整えて、膝の上で拳を握り締める。固く握った拳は震えていた。

「私はどんな理由があっても人を殺すことはいけないことだと思います。私には……それしか言えません」
『わかった。ありがとう』

うつむく美月の頭を彼は優しく撫でた。
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