早河シリーズ第一幕【影法師】
 ドライヤーで乾かした髪にブラシを入れている時、洗面所の扉がノックされた。

『開けても大丈夫?』
「は、はいっ!」

バスローブの前をしっかり合わせてから、扉を開けた。扉の前にいたキングはホテルのロゴの入る紙袋を持っている。

『ちゃんと温まった?』
「うん。いいお湯でした」
『それはよかった。はい、美月の服。洗濯してもらって今届いたよ』

 紙袋の中にはビニールに丁寧に梱包された美月の服が入っていた。クリーニングに出した後のような仕上がりだ。下着の入る袋には外から中身が見えない配慮がされている。
一流ホテルの気遣いはやはり一流らしい。

「ありがとう」

袋を受け取ってまた扉を閉める。今度は自分の服に袖を通して鏡を見た。雨でずぶ濡れになった服はすっかり綺麗になっていた。新品の服を着たみたいに、汚れのひとつも残っていない。

 リビングではキングがソファーに座ってコーヒーを飲んでいた。美月を見て微笑む彼はどんな仕草でも優雅だ。

コーヒーの匂いが漂う部屋で美月はどうしていいかわからず立ち尽くす。キングがここに座れと片手で自分の隣を示した。
美月は頷いて彼の隣におずおずと腰を降ろす。

「キングはシャワー浴びなくていいの? ちょっと濡れてたでしょ?」
『平気だよ。雨に濡れるのは嫌いじゃない。美月も何か欲しい物があれば頼んでいいよ』
「でも私、お金あんまり持ってないよ。ルームサービスなんて頼んじゃったらいくらになるの?」

 彼女は渡されたルームサービスのメニュー表とキングの顔を交互に見た。彼は意表をつかれたように肩を震わせて笑い出す。

『相変わらず面白い子だね。心配しなくてもお金はすべて私が払うよ。美月に払わせるわけないだろう? だから好きな物を頼みなさい』
「本当にいいの?」
『もちろん。君は私と一緒に居てくれればそれでいいんだ』

コーヒーを片手に微笑するキングは優しい顔をしていて、バスルームでよぎった一抹の不安は消えていた。

(至れり尽くせりってこういうことかな。現代文の模試で出たらばっちり答えられそう)

 安心したら急に甘い物が欲しくなった。メニューに載るケーキはどれも美味しそうで美月を唸らせる。

「チョコケーキもレモンパイもイチゴのロールケーキも美味しそう」
『欲しい物は全部頼んでいいよ』
「それは……ダメ。そんなに食べたら太っちゃう」
『ははっ。やっぱり女の子だねぇ。美月は華奢だから気にしなくてもいいのに』

 美月との会話をキングはとても愉《たの》しんでいる。彼はメニュー表を横目で見て、チョコケーキを指差した。

『こちらは私が頼もう。二人でシェアして食べようじゃないか。美月は他の欲しい物を頼めばいい』

キングの魅力的な提案に従い、美月は迷いに迷ってレモンパイとミルクティーを選んだ。

 キングが内線電話でルームサービスの注文をしている間、彼女は室内を探索する。毛足の長いふかふかの絨毯の上では足音も響かない。

窓の外にはバルコニーがあるが生憎《あいにく》の雨で今日は出られない。
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