早河シリーズ第一幕【影法師】
 なぎさの入院する病院は目黒区の総合病院、病棟は外科。総合受付でなぎさの部屋番号を聞いてエレベーターで外科病棟に上がった。

考えてみれば見舞いの品も何も持たずに手ぶらで来てしまった。病院の面会終了時間も迫っている。

 見舞いはまた日を改めた方がいいのではないかと思案しながら、いつの間にか目的の病室に到着していた。
大部屋ではなく個室だ。部屋番号のプレートの下にはなぎさの名前が書かれていた。

 深呼吸をしてから扉をノックする。スライド式の扉がゆっくり開かれて、母親の友里恵が顔を出した。
友里恵は早河の訪問に驚く様子はなく彼に会釈した。

「もしかしたら早河さんがいらっしゃるかもしれないと思っていました。あなたは警察の方ですから、上野さんにお聞きになりましたか?」
『はい。ご迷惑だとは思ったんですが、居ても立ってもいられなくて……お見舞いの品もなく手ぶらで押し掛けて申し訳ありません』
「お心遣いありがとうございます。……外に出ましょうか」

 友里恵は病室を一瞥した。病室の入り口から奥は白いカーテンで仕切られていて、廊下に立つ早河には室内の様子は見えない。

あのカーテンの向こうになぎさがいるのに顔を見ることは叶わず、廊下に出た友里恵が扉を閉めた。

 夕焼けのグラデーションを彩っていた空にはすっかり夜の帳が下りている。
自販機とソファーの並ぶデイルームには誰もいない。早河と友里恵はデイルームのソファーに向かい合って腰掛けた。

「先週、お焼香に来てくださったのよね。秋彦の遺品も届けてくれて。ありがとうございます」
『僕に出来ることはこれくらいしかありませんから……』

責められる心当たりはあっても礼を言われることは何もしていない。落ち着かない気分で病室のある方向に目をやった。

『なぎさちゃんの様子は……?』
「傷としては軽傷で済みましたけど、お医者様が言うには身体よりも心の傷が深いみたい。主人からなぎさの妊娠のことは聞いているでしょう?」
『はい。手術をされたんですよね』
「女にとって子宮に宿った命を失うことがどれほど辛いか、男性には想像しづらいものがありますよね。私も一度流産したことがあるんです。秋彦となぎさは歳が離れているでしょう? 本当なら秋彦となぎさの間にもうひとり、子供がいたかもしれないの。今でもその子のことを考えると涙が出ます。そうね……産まれていれば、ちょうど早河さんと同じくらいの年頃ですね」

 男にはわからない女の心と身体の痛み。流産を経験している友里恵は、それでもなぎさに堕胎手術を受けさせた。
失う痛みを知っているからこその苦渋の選択だったのだ。

「今のなぎさは心を閉じています。秋彦のことや妊娠のことが重なって、あの子の心は壊れてしまった。産まないと決めたのはなぎさ自身でも、堕胎をして平気でいられる女はいません。今日のところはお引き取りいただけますか? せっかく来ていただいたのに……ごめんなさい」
『こちらこそ突然申し訳ありません。また改めて伺います』

 早河は自分の携帯番号をメモして、何かあればいつでも連絡してくださいと添えて友里恵に渡した。友里恵はメモを受け取り、深く頭を下げた。

 病院の外に出て夏の夜の空気を吸う。結局、なぎさには会えなかった。
何をすべきかわからないまま。どこに向かえばいいのかもわからない。

ただ今の自分に出来ることは可能な限りやっていこう。それが生きている人間の役割だから。
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