早河シリーズ第一幕【影法師】
9月になっても暑さが和らぐことはなく、今朝のニュースでは今後も厳しい残暑が続くと気象予報士が言っていた。
それでも9月に入った途端に空の色は8月の色とは異なって見え、爽やかな青空を背景に建つ巨大な建物を早河は見上げた。なぎさが入院している病院だ。
おとといも昨日も病院を訪れたが、病室の前で門前払いで会ってもらえなかった。今日も会ってもらえないかもしれない。
ここに来る前に立ち寄ったケーキ屋の袋を提げて病院のエントランスを通る。この店のケーキが女の子の間で人気だと矢野に聞いて、開店と同時に並んで購入した。
今日もなぎさには会えなくても、ケーキは母親の友里恵が受け取ってくれるだろう。昨日渡した花束も友里恵が受け取ってくれた。
日曜日の病院は閑散としていて人もまばらだ。医師や看護師の姿も少なく、病院全体の空気がゆったりしている。
なぎさの病室のある階でエレベーターを降り、病室の前で立ち止まった。ノックをするといつものように友里恵が扉から顔を出した。
「早河さん、どうぞお入りください」
『でも……』
「なぎさが会いたいと言っています。私はデイルームにいますね」
彼は拍子抜けした。てっきり今日も会ってもらえないと思っていた。友里恵は廊下に出て、病室の前で立ち尽くす早河を残して廊下を歩いていった。
入室を許されなかった病室に足を踏み入れる。仕切りのカーテンを少し引くとベッドにいる女性と目が合った。
『なぎさちゃん、久しぶり』
ベッドの上で上半身を起こしているなぎさは早河を見てもにこりとも笑わず、窓に目を向けた。話をしてもらえなくてもいい。部屋に入れてもらえただけでも進歩だろう。
花瓶には昨日、早河が見舞いに持ってきた花が生けられている。ふたりきりの病室はとても静かだった。
なぎさの目に力はなく、やつれたように見える。先月渋谷のカフェで会った時は不倫の恋にケジメをつけて生き生きとした表情をしていたのに。
あの時はまだ妊娠に気付いていなかったのだ。
『部屋に入れてくれてありがとう。これ、なぎさちゃんの好きなものわからないから、大したものじゃないんだけど人気のケーキらしくて……ここに置いておくね。よければお母さんと一緒に食べて』
ケーキが入る箱を冷蔵庫の隣の棚の上に置いた。彼女はそれをチラリと見てすぐに目をそらす。
『他にも欲しいものがあれば何でも言って。と言っても俺、安月給だからあんまり高いものは買えないけど……』
「どうして?」
早河の言葉に重なってなぎさが初めて声を発した。小さな声だった。
「どうして私に会えないってわかってるのに来るの? 昨日もその前も……」
『なぎさちゃんが心配だからだよ』
「心配? 罪滅ぼしのつもり? それとも同情?」
感情のなかったなぎさの瞳が潤んでいる。厳しい言葉を浴びせられるのは承知の上だ。
それでも9月に入った途端に空の色は8月の色とは異なって見え、爽やかな青空を背景に建つ巨大な建物を早河は見上げた。なぎさが入院している病院だ。
おとといも昨日も病院を訪れたが、病室の前で門前払いで会ってもらえなかった。今日も会ってもらえないかもしれない。
ここに来る前に立ち寄ったケーキ屋の袋を提げて病院のエントランスを通る。この店のケーキが女の子の間で人気だと矢野に聞いて、開店と同時に並んで購入した。
今日もなぎさには会えなくても、ケーキは母親の友里恵が受け取ってくれるだろう。昨日渡した花束も友里恵が受け取ってくれた。
日曜日の病院は閑散としていて人もまばらだ。医師や看護師の姿も少なく、病院全体の空気がゆったりしている。
なぎさの病室のある階でエレベーターを降り、病室の前で立ち止まった。ノックをするといつものように友里恵が扉から顔を出した。
「早河さん、どうぞお入りください」
『でも……』
「なぎさが会いたいと言っています。私はデイルームにいますね」
彼は拍子抜けした。てっきり今日も会ってもらえないと思っていた。友里恵は廊下に出て、病室の前で立ち尽くす早河を残して廊下を歩いていった。
入室を許されなかった病室に足を踏み入れる。仕切りのカーテンを少し引くとベッドにいる女性と目が合った。
『なぎさちゃん、久しぶり』
ベッドの上で上半身を起こしているなぎさは早河を見てもにこりとも笑わず、窓に目を向けた。話をしてもらえなくてもいい。部屋に入れてもらえただけでも進歩だろう。
花瓶には昨日、早河が見舞いに持ってきた花が生けられている。ふたりきりの病室はとても静かだった。
なぎさの目に力はなく、やつれたように見える。先月渋谷のカフェで会った時は不倫の恋にケジメをつけて生き生きとした表情をしていたのに。
あの時はまだ妊娠に気付いていなかったのだ。
『部屋に入れてくれてありがとう。これ、なぎさちゃんの好きなものわからないから、大したものじゃないんだけど人気のケーキらしくて……ここに置いておくね。よければお母さんと一緒に食べて』
ケーキが入る箱を冷蔵庫の隣の棚の上に置いた。彼女はそれをチラリと見てすぐに目をそらす。
『他にも欲しいものがあれば何でも言って。と言っても俺、安月給だからあんまり高いものは買えないけど……』
「どうして?」
早河の言葉に重なってなぎさが初めて声を発した。小さな声だった。
「どうして私に会えないってわかってるのに来るの? 昨日もその前も……」
『なぎさちゃんが心配だからだよ』
「心配? 罪滅ぼしのつもり? それとも同情?」
感情のなかったなぎさの瞳が潤んでいる。厳しい言葉を浴びせられるのは承知の上だ。