早河シリーズ第一幕【影法師】
なぎさの父親の香道正宗が廊下を歩いて来た。早河は正宗に会釈する。正宗も早河に目礼した。
『なぎさ。お母さんと先に車に行っていなさい。お父さんは早河さんに話があるんだ』
「……はい」
正宗に渡された車の鍵を持ってなぎさは名残惜しげに早河と別れ、母親とエレベーターホールに向かった。
早河と正宗はデイルームのソファーに向かい合って座った。最初に病院を訪れた日も、なぎさの母の友里恵とこうして向かい合って話をした。あれからもう1週間だ。
『上野さんに聞きましたよ。警察をお辞めになるつもりだと』
『はい。近日中には』
早河が刑事を辞める件は上司の上野警部から正宗に伝わっている。上野にはずいぶん引き留められたが、早河の意志は揺らがなかった。
『警察を辞めても……その……秋彦を殺した奴を捕まえられるものですか? 民間人に犯罪者を裁く権利はないと私は思いますが』
『仰る通りです。警察を辞めれば、僕はただの民間人になります。でも民間人でも犯罪者を追い続けることはできます。僕の父がそうであったように。父と同じようにいくかはわかりません。ですが、もう決めたことです』
正宗は早河を見つめた。早河の真意を、彼の決意を読み取るかのように。
『あなたの人生ですから口を挟む真似はしません。ただ警察を辞める理由が現実からの逃避ならば許せないと思っただけです。……なぎさが退屈しているだろうからそろそろ行きましょうか』
正宗は小さく頷いて立ち上がった。早河も立ち上がる。
『毎日、病院に来ていただいたようですね。なぎさの話し相手をしてくれていたと妻が話していました。ありがとうございます』
『少しでも彼女の気晴らしになればと思って……僕にはこれくらいしかできませんから』
廊下を歩いてエレベーターホールに辿り着く。二人は到着したエレベーターに一緒に乗り込んだ。
『なぎさちゃん、仕事はこれからどうされるんですか?』
『先月から欠勤が続いてしまいましたからね。今月中には仕事に行かせます。身内が死んでも、子供を堕ろしても、いつまでも休んではいられません。いつかは社会に出て働かなければいけない。それがこの国のルールです』
『……そうですね』
何が起きても働かないといけない社会のルール。早河もこの先、自分ひとりが暮らしていくだけの稼ぎを得るだけで精一杯になる。
安定した公務員の仕事を自ら手放すことはない……警察を辞めると決めてからは周囲からそんな声も飛んできた。
それでもこのまま警察の飼い犬になるよりはマシだ。
病院のエントランスで早河と正宗は別れる。正宗を見送り、早河は黒い雲の渦巻く空を見上げた。
台風が接近して暴風警報が出ている東京は雨は小雨だが風が強い。街路樹の木が大きく揺れていた。
『……俺も行くか』
貴嶋佑聖と犯罪組織カオスを追い続けるために。
今日が警察官でいられる最後の日だった。
第四章 END
→第五章 春日影 に続く
『なぎさ。お母さんと先に車に行っていなさい。お父さんは早河さんに話があるんだ』
「……はい」
正宗に渡された車の鍵を持ってなぎさは名残惜しげに早河と別れ、母親とエレベーターホールに向かった。
早河と正宗はデイルームのソファーに向かい合って座った。最初に病院を訪れた日も、なぎさの母の友里恵とこうして向かい合って話をした。あれからもう1週間だ。
『上野さんに聞きましたよ。警察をお辞めになるつもりだと』
『はい。近日中には』
早河が刑事を辞める件は上司の上野警部から正宗に伝わっている。上野にはずいぶん引き留められたが、早河の意志は揺らがなかった。
『警察を辞めても……その……秋彦を殺した奴を捕まえられるものですか? 民間人に犯罪者を裁く権利はないと私は思いますが』
『仰る通りです。警察を辞めれば、僕はただの民間人になります。でも民間人でも犯罪者を追い続けることはできます。僕の父がそうであったように。父と同じようにいくかはわかりません。ですが、もう決めたことです』
正宗は早河を見つめた。早河の真意を、彼の決意を読み取るかのように。
『あなたの人生ですから口を挟む真似はしません。ただ警察を辞める理由が現実からの逃避ならば許せないと思っただけです。……なぎさが退屈しているだろうからそろそろ行きましょうか』
正宗は小さく頷いて立ち上がった。早河も立ち上がる。
『毎日、病院に来ていただいたようですね。なぎさの話し相手をしてくれていたと妻が話していました。ありがとうございます』
『少しでも彼女の気晴らしになればと思って……僕にはこれくらいしかできませんから』
廊下を歩いてエレベーターホールに辿り着く。二人は到着したエレベーターに一緒に乗り込んだ。
『なぎさちゃん、仕事はこれからどうされるんですか?』
『先月から欠勤が続いてしまいましたからね。今月中には仕事に行かせます。身内が死んでも、子供を堕ろしても、いつまでも休んではいられません。いつかは社会に出て働かなければいけない。それがこの国のルールです』
『……そうですね』
何が起きても働かないといけない社会のルール。早河もこの先、自分ひとりが暮らしていくだけの稼ぎを得るだけで精一杯になる。
安定した公務員の仕事を自ら手放すことはない……警察を辞めると決めてからは周囲からそんな声も飛んできた。
それでもこのまま警察の飼い犬になるよりはマシだ。
病院のエントランスで早河と正宗は別れる。正宗を見送り、早河は黒い雲の渦巻く空を見上げた。
台風が接近して暴風警報が出ている東京は雨は小雨だが風が強い。街路樹の木が大きく揺れていた。
『……俺も行くか』
貴嶋佑聖と犯罪組織カオスを追い続けるために。
今日が警察官でいられる最後の日だった。
第四章 END
→第五章 春日影 に続く